« 2017年9月 | トップページ | 2018年5月 »

2018年1月

2018年1月26日 (金)

第80回 2017年11月24日(金)

講 師: 我妻緑巣(書家)

1934年室蘭生まれ。渡辺緑邦に師事。これまで北海道書道展、日展、毎日書道展、創玄展を主舞台として作品を発表。近年は「我妻緑巣」展(94,99,2004,2014年)を開き、「老子」などに挑んでいる。『北海道の「書」20人の世界』道立近代美術館、91年、「北海道の書」展道立近代美術館03年に出品。北海道書道連盟理事長03年、札幌芸術賞05年受賞。2015年には「ふるさと夕張」展(夕張市清水沢地区公民館)を開催し話題を集めた。

書芸術への熱い想い
Azuma01

第80回レクチャーは、書家我妻緑巣(札幌在住)にお願いした。我妻は、北の地に根をはり、近代詩文書の世界において、金子鷗亭、中野北溟らに続いて、独自なフィールドを切り拓いている。北の書人の第一人者だ。レクチャーをお願いした時、「文房四宝のことを話したい」といわれていた。自分にとり、<何をかくか><どうかくか>も大事だが、墨、筆、硯、紙がいかに<至高な存在>であるか、それが「書のいのち、作品の格」を決めるものであるか、力をいれて語ってくれた。我妻は、そのことを示すために、レクチャーの壁に、「文房四宝」の書字を掲げてくれた。
Azuma02

またかなり高価な、墨、筆、硯などを、各自が手にとってみるように配慮してくれた。そしてこう言い放った。「いいものを使え」と。この言葉を聞きながら、こう感じた。書業を極めるためには、財を惜しまず、いい道具と出会えと。芸術と道具。道具は手段に過ぎないとみる人もい。しかし特の書芸術においては、生命を賭けた仕事を支える重要なパートナー、いやそれ以上の、創造力と生命力の源なのなのである。「いいものを使え」、短いが長年にわたり「書」を追究してきた書家らしい含蓄ある言葉だった。また我妻は、二〇一〇年に西安の地を訪れているが、その実体験から、中国の碑文、その本物(オリジナル)を自分の足と眼で確かめることの重要性に言及した。

少し、分からないことがあったので、にわか勉強をした。筆の始まりは、一般的には秦の始皇帝(約2300年前)の時代に遡及するという。秦の時代に、蒙恬(もうてん)なる将軍が、枯木を管(じく)とし、鹿毛を柱(しん)に、羊毛を被(おおい)として作った。その筆を始皇帝に献上したのがはじまりという。一方日本における最古の筆は、奈良正倉院に所蔵されている「天平筆」「雀頭筆」という。硯もまた長い歴史を刻んでいる。我妻は、「端渓(たんけい)」の硯(すずり)は最高という。しかし「文房四宝」の質も、政治社会の変動に左右されているという。中国では文革以後、質の悪い藁を使うことで紙の質が随分低下してきているという。
Azuma04

今回のレクチャーで、私は、我妻の境涯に少し触れることができた。我妻の書は、早くに両親を亡くしてこともあり、いかに「立身」するかということと、深く絡んでいたようだ。室蘭に生まれたが、両親の死去により、縁戚の世話になり夕張へ。その後札幌に出て、生涯の師となる渡辺緑邦に師事した。師からは3回破門されたというが、師から「緑」を頂き「緑巣」とした。こうして我妻にとって書は、生きることと不可分な関係を結んだ。だからであろうか。我妻は、宮澤賢治の詩を好んで題材にしている。代表作「雨ニモマケズ」や「ふきの花でいっぱいだ」において、筆にいまここに自分が生きていることの感慨(喜び)をのせている。まさに書世界の中で、自分探しを行い、書が彼を支えたといえる。それだけではない。オリジナルな書法確立を目指して研鑽を積んでいる。そしてなによりも、1つ1つの筆触に現代的感覚を漲らせ、紙背に鮮烈な美を宿らすこと目指している。 
Azuma05
Azuma06

話の後半では、主として80歳を迎えて「老子」に挑んだ展覧会の作品をラッシュでみせてくれたが、現代語訳を素材にしながら、新しい自分探しをしているのが分かった。特に「一」の力作には、闇を切り裂く生命力が漲っていた。まさに墨、筆、紙、硯の力を借りながら、古い自分を脱ぎ捨てていく、求心的な意志力を熱く感受した。

最後にみせてくれた映像が楽しかった。席をうめた我妻さんの「生徒さん」も、大感激だった。映しだされたのは、若き日の我妻さん。一斉に「若い!」の声があがった。書友(仲間)が我妻宅へ集まり、壁に貼った紙(?)に交互に書を書いていた。女性達は、背中に子供をおんぶして、喜々として筆を動かしていた。こんな風に競いあいながら書に熱をあげる姿。とても微笑ましく、そして素晴らしいと感じた。映像の中の我妻の顔。柔和な表情はいまと同じであった。
Azuma07

 人生という回路では、我妻は老成の峠をこえた。しかし芸術には、永遠に終わりはない。さらに大きな峠をこえて、新天地を切り拓いてほしいものだ。

Azuma03
(文責・柴橋)

第79回 2017年10月27日(金)

講 師: 小杉恵(ピアニスト)

岩内町生まれ。北海道教育大学札幌校芸術文化課程音楽コース卒業。1995年札幌市民芸術祭新人音楽界に出演し、札幌市民芸術祭大賞を受賞。ハイメスコンクール第二位受賞後、ハンガリー国立リスト音楽院にて研鑽を積む。帰国後は、国内外でソロや室内楽など、多くのコンサートに出演。ピアノを故若林千恵子、高島真知子、薄井豊美、谷本聡子、故K.ゼンプレーニ各氏に、室内楽をJ.デーヴィッチ氏に師事。現在札幌大谷大学、札幌藤女子大学、札幌国際大学にて非常勤講師を務める。日本ショパン協会北海道支部、ハイメスアーティスト、札幌音楽家協議会、「Zongoraの会」「2000番の会」各会員。

リストの多面性を知った一夜

Kosugi01
 

第79回レクチャーは、ピアニストの小杉恵にお願いした。小杉は、ハンガリーのリスト音楽院に留学し、研鑽を積んだことがあり、演奏会でもリストの曲を取り上げている。そんな経験を生かして、「ピアノの魔術師」と呼ばれたリストの「人となり」と音楽性の魅力を存分に語ってくれた。日本人には、リスト音楽を愛する人が多いが、その実像について詳しく知ることが少ない中、とてもいい機会となった。

Kosugi02

リストは神童といわれ、9歳で演奏を開いたという。その才能が評価され、かなり多額な奨学金の給付をうけ音楽の都ウィーンへいく。そこでツェル二ーに師事している。

小杉は、リストには、「4つの顔」があるという。作曲家、演奏家、教育者、聖職者。特に演奏者としては、世にいわれるように超絶技巧を駆使した演奏は、「ピアノのパガニーニ」とまでいわれるほどだ。技巧を支えたのが大きな手であった。小杉は、手の大きなピアニスト達をランク付けしながら紹介してくれたが、上位に位置する。「指が5本ついている手が二つあると思うな。身体から10本の指が生えていると思え」といったという。
リストの手(石膏複製)をみんなにみせてくれたが、自分の手と重ねてみても、たしかにおおきかった。
Kosugi06

手の技巧を駆使した演奏は、特にパリの社交界で人気をうけ、気絶する女性も出たほどだという。それが戯画化されている。
Kosugi04

私は話を聞いていて、新しいリスト像を得ることができた。それは教育者としての存在の大きさだった。父の死により、生活のためピアノ教師として活動した。その場は、パリ、ジュネーブ、ワイマール、ブタペスト、ローマと広範囲だ。生徒は、有名無名を問わず、1000人を超えるという。その第一人者が、ハンス・フォン・ビューローである。同時代人の音楽家には、ベルリオーズ、パガニーニ、メンデルスゾーン、ショパン、シューマンらがいる。リストは、彼らから音楽的にも大いに影響を受け、また彼等の曲をピアノ用に編曲し今日に伝えている。それは、オペラ、歌曲、オーケストラ曲など80曲にのぼるという。その中には、ベルディのオペラ『リゴレット』の弦楽四重奏化、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」などもある。こうした編曲の仕事は、大きな価値をもつようだ。

 私的な面と音楽史におけるリスト。それを語る上で、忘れてならないのが、恋とワーグナーとの関係だ。マリー・ダグー伯爵夫人(作家でもある)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃れる、約10年間にわたり生活を共にし、3人の子供が生まれた。
Kosugi03

その1人が、リヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。そんなことで、ワーグナーとは縁戚を結んだ。リストの死も、ワーグナー絡みだった。1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後、慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬されたという。小杉は、バイロイトにある墓廟を紹介してくれた。華麗な演奏と波乱に満ちた人生を送ったリストだが、それとは対比的な清楚な空間だった。その対比が興味深かった。
Kosugi05

 小杉は、最後に自身がリストの曲を演奏した映像をみせてくれた。堂々として、ダイナミックなリストの音だった。やはり実際の音はいい。みんなも喜んでいた。時間の関係で、聖職者の道をどう歩んだか、また晩年の仕事(「巡礼の年」など)について、語ってもらうことができなかった。またの機会をまちたい。
Kosugi07

サラのレクチャーとしても、こうした名音楽家について学ぶプログラムを考えていきたい。小杉の、今後の演奏活動に大いに期待したい。


(文責・柴橋)

第78回「木田金次郎美術館のこれまでとこれから」

第78回 2017年9月29日(金)

講 師: 岡部卓(木田金次郎美術館学芸員)

1969年札幌生まれ。岩手大学人文社会科学研究科修了(地域文化専攻)。1997年岩内町に採用、木田金次郎美術館学芸員として現在に至る。最初に担当した展覧会は「木田金次郎と神田日勝」。地域に根差した制作を行っていた木田金次郎を、地域に根差した活動から掘り下げることを意識して活動している。

思い出に深く残る展覧会は「木田金次郎の千石場所」2000年、「田上義也―北方建築の種」2010年など。


こぶりながら真珠のような美術館
Okabe01
 

第78回レクチャーは、私の故郷である岩内から、木田金次郎美術館の学芸員岡部卓を迎えた。タイトルは、「木田金次郎美術館のこれまでとこれから」。
Okabe02

話の構成は、二部構成だった。第Ⅰ部では、「木田金次郎美術館のこれから」。第2部では「木田金次郎美術館のこれまで」。通称「木田美」とよばれているが、岡部は、「ちょつと変った」美術館といいながら、その個性的性格に触れつつこういう。町がつくった美術館であること。美術館では、毎年「どんざ」祭を開催。作品のかなりの部分が、寄託の形でおさめられていること。木田金次郎に特化していること。年3本の企画を立ち上げ、これまで60本の展覧会を実施。そのつどポスターや図録を作成。こんなユニークな展示もあった。木田の作品をおさめた「額縁」や木田の蔵書にスポットを照射した「本棚」をテーマにしたものなど。
Okabe03

このように地方美術館の中で、小ぶりながら真珠のような輝きを放っている。それができている最大の理由は、木田金次郎の「人となり」と作品が人を引き付けてやまないということであろうか。1954年の岩内大火により、大部の作品が灰に帰したが、その悲運から立ち上がって創作を続けた、その不屈性に感銘をうける人も多い。

また有島武郎と八木義徳により、2度にわたり小説モデルとなり、大きな話題となったことも力となった。木田は、多くの文人、ジャーナリスト、評論家、財界人と出会い交流していたが、彼らは、共通して木田の人となりと絵画が一致していることに強く感銘をうけたようだ。

木田は、岩内周辺を軸とした海や山を相手に、常に眼を澄まし、生気ある絵画空間を創生するために、貧を耐えながら孤軍奮闘した。そして日々真摯な姿勢を貫き、虚性を剥ぎ取った純生な美を、掴むために筆を動かし続けた。まさに画家の中の画家であった。

 岡部ら学芸員は、木田金次郎という「尽きぬ泉」から、水を汲むようにして、企画を立ち上げた。木田繋がりから、中央からたくさんの文人・評論家などが来岩し、美術館でレクチャーをしている。針生一郎、武田厚、池内紀、酒井忠康などたくさんいる。

岡部は、思い出に残る企画として「木田金次郎の千石場所」「木田金次郎の交流展」をあげていた。「千石場所」では、岩内、茅沼、神恵内、積丹の木田がキャンバスを立てた制作場を実証的に再考した。そこには、いまは姿を消した「ヘロカウルスの岩」もあった。木田は、50号のキャンバスを持ち歩き、現場主義を貫徹したが、木田が眼の位置などを変化させながら、ダイナミックな空間を造りだしていたという。
Okabe04
Okabe05  
Okabe06

また最近では、画家小谷博貞講演会の開催や、橋浦泰雄、田上義也をテーマにして、新しい視座で、木田交流圏に光を注いでいる。ちなみに小谷博貞と橋浦泰雄は、縁戚関係にあった。画家、社会主義者であった橋浦が、民俗学の道に入るきっかけをつくったのが、岩内での木田との出会いという。これまで見えなかったものが、クリヤーになり、木田交流圏は広く、深いものであったことが判明しているという。この紙幅が少なくなった。続いて「絵の町・岩内」として、「緑陰会」「山岸正己」「岩内高校美術部の活躍」「たら丸誕生」「前川茂利が撮った岩内」などを短く語ってくれた。
Okabe07

第二部の「木田金次郎美術館のこれから」では、さらに作品との出会いを求めていきたいと決意をのべていた。作品の里帰りもあるという。女優小暮美千代が所有していた作品が、長い年月を経てリターンしたという。2018年は、名作『生まれ出づる悩み』が誕生して100年を迎えるという。これを記念し、札幌の「チカホ」空間でも展示を計画中という。

1人の画家の存在が、こうして町を活性化し、さらに全国へと交流圏(人脈)が拡大していく…。まさにこの美術館は、町の財産となっている。最後に一言。これからも町に根付きながら、美術館の新しいあり方を先見的に探ってほしい。(文責・柴橋)

« 2017年9月 | トップページ | 2018年5月 »