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2015年12月

2015年12月11日 (金)

第60回 伊福部昭の肖像

第60回=2015年11月27日(金)

●講 師=柴橋 伴夫(詩人・美術評論家)

1947年岩内生まれ。砂澤ビッキや難波田龍起を評伝スタイルで論じ、『聖なるルネサンス 安田侃』、『夢みる少年イサム・ノグチ』、『太陽を掴んだ男岡本太郎』、『海のアリア 中野北溟』を刊行。現在、伊福部昭の評伝を執筆中。

荒井記念美術館理事、北海道文学館評議員、『美術ペン』編集長。文化塾「サッポロ・アートラボ(サラ)」代表。

北の聲アート賞事務局長。

●テーマ=伊福部昭の肖像
伊福部昭の風景を歩いて
第60回のレクチャーは、柴橋伴夫が担当した。本来であれば、この「まとめ」は別の人に書いてもらうのが本来ではあるが、今回は本人が書かせてもらうことにした。そのことをまず記しておきたい。
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私は、1年余をかけて評伝『生の岸辺-伊福部昭の風景(パサージュ)』を書いた。このレクチャーには間に合わなかったが、12月初旬の刊行となった。このレクチャーでは取材話を含めて、伊福部昭とはどんな音楽家であったのか、その生の岸辺(風景)と人物肖像を詳しくのべることにした。
まずここで一番言いたかったことは何か、数点でまとめておきたい。
第1に伊福部家の伝統、その「家の力」である。家は、代々因幡国(現・鳥取県)の古代氏族として名をなしていた。また先祖は、因幡国一の宮たる宇倍神社(御祭神が武内宿禰命)の宮司でもあった。伊福部昭は、父より家学たる『老子』哲学を学び、さらに中国思想や漢籍に精通した「知の人」であった。
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第2に札幌で青春期に世界を目指した音楽家であること。若い者は、夢みることが特権である。三浦淳史、早坂文雄らは、20代で世界を夢見ていた。[新音楽連盟]の結成(1935年)し、「第1回国際現代音楽祭」を丸井記念館で開催。まさに数人の仲間で世界と繋いだこと。その中の早坂文雄 とは、盟友として親交を深めた。早坂は北海中学(現・北海高校)出身。『国際現代音楽祭』では、ピアニストとしてエリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャなどの作品を演奏した。ピアノ曲、管弦楽曲、室内楽曲、映画音楽の分野で作品を残している。このレクチャーには、多くの学生も来ていた。それを意識し、「もっと若い時にはでっかい夢を描くべきだ」「いろいろなことにチャレンジすべし」と、言を強めた。
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第3に伊福部昭の思想には、21世紀に復活すべき「共生の思想」があること。釧路、網走、音更、厚岸などで生活し、アイヌ・北方のギリヤーク族などの音、神楽、盆踊りなど民衆の歌舞にも関心を抱いていた。それらを素材にして「ギリヤーク族の古き吟誦歌(1946) 」などを作曲している。
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さらにその眼差しは、世界の民族楽器、日本の琴、明清楽器に及んでいる。現在、世界では民族同士が対立し、悲劇的様相を呈しているが、この音楽家は、常に民族の固有的価値を大切にすべきであると、訴えてきた。その意味でも、民族の共生を願っていた人だった。
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最後に平和を希求する「音」 の創造者である。よく知られた映画「ゴジラ」や「原爆の子」に託したものは、一言でいえば、平和への祈りである。太平洋戦争下、苦難の「夜の時代」を過ごし、自らが戦時研究員として木製飛行機のために「強化木」実験中に、放射線を浴びて苦しんでいた。これを忘れてはならない。私は、伊福部の戦時下の苦い自己体験が、それらの音には色濃く反映しているとみている。
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ただこの辺で90分をこえてしまった。そのため結論部分を省略してしまった。ここではその最後の部分を箇条にして記しておきたい。
❶伊福部昭の音楽には、現代的価値があり、さらに予言性を帯びている。
❷伊福部昭は「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」という。つまり民族性は芸術の根源力となると宣言している。
➌音楽は、平易なものであるという。音楽とは何かを、本質を踏まえてこんなにも平易にいいきった。
❹伊福部昭の思想には、北方的な美学が宿っている。無垢なる大地や森が生み出す生命力、反復するリズム、土俗性、それらは北の音が原点となっている。
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最後に一言。この評伝を書き終えて、北海道人として、この北方的美学に根ざした表現をつくるべきであり、自らの課題にしなければいけないと、強く感じている。
(文責・柴橋伴夫)
 

2015年12月 9日 (水)

第59回 盆栽の今と昔

第59回=2015年10月30日(金)

●講 師=君島 信博(盆栽作家)

1974年岩見沢生まれ。野山に咲く草花の可憐さに魅かれ、20歳の頃から始めた山野草の鉢栽培は、次第により高度な栽培技術を必要とする盆栽へと移行していった。

夕張市の盆栽生産業者に勤めた後、2005年に盆栽のアトリエ『草っ月』を設立。現代における盆栽を追求し、個展やグループ展、ワークショップ等を開催している。

道新文化センター、NHK文化センター講師を勤める。

テーマ=盆栽の今と昔

盆栽は「和」のティスト
第59回のレクチャーは、盆栽作家の君島信博。君島は、「和」のティストの極み、その盆栽の魅力と美について存分に語ってくれた。君島は、現在岩見沢に「アトリエ・草つ月」を開設し、さらにいろいろなところで、手のひらに収まる位の小さな盆栽づくりの喜びを教えている。
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今回は、アトリエから、手をかけている様々な盆栽を持ってきてくれた。映像は使わなかったが、その個々の盆栽作品がその魅力を存分に教えてくれた。
私なりに調べてみると、日本の盆栽の始原は、14世紀まで遡及する。本願寺三世覚如の伝記を描いた絵巻『慕帰絵詞(ぼきえことば)』(1351年)には、縁先に接した空間に盆栽を3個並べた状景が描かれているという。室町期には、こうして盆景と同じく、室内からの鑑賞を行ったという。どうしても私には、盆栽というと下町の小路などに置かれたイメージが強かったが、庶民化したのは明治期の頃という。
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さて海外では「ボンサイ」として人気を集めて、国際語となってきている。日本でも若い人たちのも愛好家が増えている。
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版画や油絵を飾るだけでなく、盆栽を置いて室内を飾っている。水と光と土。それが一番大切というこうした人気はどうして起こったのであろうか。私なりに考えてみた。まず手頃であること。樹や緑を育てること。日々の営みの中でできること。さらにいえば自然の光景を縮小(造形)する、これらが人気を集めている理由ではないか。それだけ、ともおもえない。現代人の心が荒廃するなかで、心をなごませてくれる力があるからではないか。なにより「いのち」を育てることが、人の本能であり、それにうまくマッチしているのではないか、ともいえる。
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ただ君島の場合は、そんなに難しいことではないようだ。「野山に咲く花木の可憐さ」にひかれ、野山草を主体にした盆栽づくりをスタートさせたという。一時、夕張にある盆栽生産業社に勤務したことがある。
さて実際に君島の話を聞いてみると、培養土や苔などを研究しながら、若い樹を育てることは、かなりの労力と時間がかかるという。小さいものでも数年、子供を育てるのと同じという。今回は、そのつくり方の初歩をみせてくれた。
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枝を剪定し、さらに針金を使って曲がりなどを付けて整えていく。みていてもかなりの手わざとデザイン性が大切になると感じた。多種の道具も必要であり、鉢選びも重要である。鉢も高いものもあるが、樹の色との関係で、どんなものを選ぶか美的感覚が試されるようだ。
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話を聞きながら、もう1つの盆栽も魅力を発見した。それは小さな盆栽から四季を感じることができることではないか。春や夏の葉の色、それが秋になると変化する。どんなに小さな盆栽であっても、そこに季節の変化が立ち現われる。なんという日本人らしい繊細な感覚だろうか。こうした「小さないのち」を育てる喜び。オジサンの趣味ではないようだ。れっきとしたアートといえる。私の1つの結論は、盆栽とは日々の中で自然を鑑賞しながら、育てる楽しみを持つことではないかと考えた。とすれば、なかなか奥が深いアートのようだ。
(文責・柴橋伴夫)

第58回 生地と語らう—RIPOSOの服づくり

第58回=2015年9月25日(金)

●講 師=藤井 祐人(洋服作家)

1974年稚内生まれ。1996年北海道文化服装専門学校卒業。1998〜2000年イタリアミラノ留学、ファッション専門学校IstitutoARLO SECOLIを卒業。

2001年よりモデリスト柴山登光氏のパターン制作会社に勤務。1年間紳士服縫製技術を学ぶ。2008年北海道に戻り、RIPOSO設立。

休日のリラックス感をイメージ
し、自然素材を使いシンプルで良質な服作りを目指す。現在、札幌にアトリエを構え、展示会を行っている。


●テーマ=生地と語らうRIPOSOの服づくり

「RIPOSO」の服づくり
第58回のレクチャーは、洋服作家の藤井拓人。たった一点の服を作る。それを自分の手で、自分のデザインで…。そんな夢を実現しているのが、藤井拓人(ふじいゆうと)である。
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まず初めに藤井は「自分のショップはありません」「自然素材をつかって服づくりをしております」「基本コンセプトは、リラックスな服作りをしています」と語り出した。話は、「自己紹介」「RIPOSO」(リポーゾ)の服作り」「生地との語らい」「まとめ」の順で進んだ。 
藤井は、1974年に稚内に生まれ、道文化服装専門学校を卒業後、1998年から2年間北イタリア・ミラノにある「ISTITUTO」で学んだ。ミラノは、ファッションやデザインの街。その本場で学んだ。その後東京の「SUN MODESUDIO」(柴山登光氏のパターン制作会社)に勤め、2008年より「RIPOSO」を設立した。ちなみに「RIPOSO」とは、イタリア語で「緩む」「休息」の意味がある。
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ミラノでの学びの話が興味深かった。カルロ・セコリ氏に師事し、言葉の壁を乗り越えながら基本技術を習得し、さらに自分の作品づくりに奮闘した。個性重視、実力主義で作品が入賞すると、入学金免除などの恩恵があった。単身での武者修行。夢を抱いて自分を奮闘させる。その情熱に心打たれるものがあった。本場での修行、競い合いは、大きな力と自信となったようだ。
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今回、服作りの工程(デザイン、パターン、裁断、縫製)を映像でみせてくれた。予想していたよりも、手が混み大変な労力を伴うことが分かった。また服作りをする中で、いろいろなことを教わったが、心に残っているのが「男の背中、それが大切だ」と言葉。服を作る人が、いくら着る男の背中を意識しても、それを着る男が、それにふさわしい姿を見せなければならない。だからこの言葉は、奥が深い。これは男の美学に通じる。
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そういえば背広の似合う男が少なくなり、まして背中が語ってくれる男もめっきりいなくなった。それは淋しいことだ。藤井は、またこんなことを言っていた。「服は人を包むものなのなので、そこには直線はない」という。考えてみれば、このことも当たり前のことかもしれないが、私たちは自明でありながら、それをすっかり忘れているのではないか。
藤井は、特にリネンなどの自然素材を使ってデザインしている。さらに伝統的な染めや絞り技法にも関心を抱いている。ふんわりとやわらかい、そして張りがあり、あたたかく軽いという「結城袖」に関心を抱いた。茨城にある工房にも足を運び、製法などを見聞した。また正藍染(「灰汁(あく)」で醗酵させる、伝統的技法)をどのように服づくりに活かすかを探っている。こうした伝統技法を織り込みながら、新しい服づくりに精励する。それを単独で行う。
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たしかに夢のある仕事であるが、とても経費も時間のかかることだ。いうまでもなく服とは着るもの。着られて、はじめて生きてくる。これから多くの壁があっても、それを乗り越え、多くの人に着てもらえる服づくりを続けてほしいと感じた。
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最後にみんなで、藤井が作った服を着てみた。とても軽く、手触り感がよく、色あいも優しかった。なにより「いい服をきている」という実感があった。そんな新鮮な感動を味わった。(文責・柴橋伴夫)

2015年12月 8日 (火)

第57回 〈エジプトひとり旅〉のあれこれ

第57回=2015年8月29日(

●会 場=北海道立文学館 講堂

●講 師=岡田 大岬(書作家)

1945年札幌生まれ。北大法学部卒業。岬土社代表。朝日カルチャーセンター札幌初代講師。独立書人団会友。北海道独立書人団常任理事。景象展招待作家。北大総合博物館資料部研究員。北大遠友学舎〈書〉の講座講師。
『美術ペン』に「北海道の書人-その群像」
月刊『書現』に「新・北海道書道史稿」の連載を執筆中。

《エジプトひとり旅》8回。9月にギャラリーエッセで「エジプト憧憬〔1〕ヒエログリフ展》を開催。

●テーマ=〈エジプトひとり旅〉のあれこれ

エジプトに魅せられた男

第57回レクチャーは、サラメンバーの岡田大岬(書作家)にお願いした。タイトルは「≪エジプトひとり旅≫のあれこれ」。会場を北海道立文学館講堂に移し、土曜日の午後に実施した。ほぼ満席だった。司会・進行を、「サラ」メンバーの柏木志保が行った。
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エジプトで出会った人や街のことなどを旅行メモや交えながら、一人旅の魅力を存分に語ってくれた。これまでに、8回のエジプト旅行をしている。下見を兼ねて最初の2回はツアーに参加。あとの6回は「一人旅」となった。 岡田に「エジプト熱」を植えた方も会場に顔をみせてくれた。医師の田中信義さん。ある時、飲み屋で出会い、田中さんは自分の体験を踏まえエジプトの魅力をたっぷりと語った。その際、「ピラミッドを見てない男は男ではない」と扇動したという。この言葉が、魔法の言葉となった。
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それいらい岡田の「エジプト詣」が始まった。 まず言葉を覚えたという。簡単な旅の会話、挨拶、自己紹介、数の数え方。それを現地で応用した。タクシーや買い物などで「いいえ」(ラ)やアラビア語の数字を覚えると値切り方やごまかしを見抜くことができた。 またカイロ日本人学校の上田校長を1998年に訪ねている。前任の校長可児(かに)満夫さん(現・北見市端野町在住)との出会いもあった。可児さんは、北海道出身者で、3年間カイロの日本人学校の校長を務め、『出会いの街・カイロ』の本も出している。
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私は、このレクチャーを聞きながら、なぜ岡田はエジプト熱に「侵された」かについて考えた。書道家なので古代のヒエログリフや、さらにスエズ運河やピラミッドへの関心はかなり前からあったようだ。 ヒントとなるのが「旅行と旅はちがう」という言葉だった。ではどこが違うのであろうか。察するに、旅は単独者が最高という見方があるようだ。自分で調べ、自分の目と足で味わうべきもの。ある場合は身の危険をおかしてでも行うもの。それに拘るのは、レールに敷かれたルートで、ツアーガイドに従い見聞する旅行では、真の出会いや発見ができないからであろうか。それだけにとどまるとは、考えられない。日常からの脱出、さらにいえばその場に身を置くことで、人間にとって一番大切な「精神の自由」を獲得しようとしたのではないだろうか。 いわば旅の魅力とは、自分をまる裸にして、その場に立つこと、と考えている。基本はホテルも予約なし。むしろ意識して、不便だが安ホテルを好んだ。何回目かの旅では、ムバラク政権崩壊後の政情不安のカイロにも身をおいた。
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さて首都カイロは、アラビア語「アル・カーヒラ」の英語読みという。なんと不思議にも「火星」の女性形という。 この旅の仕方は、岡田がよく読んでいる『深夜特急』の作者沢木耕太郎の生き様と共通するものがある。沢木耕太郎と同じく、皮膚を見知らぬ土地に晒すことで、自分というものが見えてくる、生の実感を味わうことができた。岡田はこう記している。「日本とは全く異質な世界の展開」「まさに混沌たる、廃墟のようなたたずまい」、それがいいと。 手作りの旅づくりには、旅行業者と『地球の歩き方』などの本が重要のようだ。協力してくれたのが「ノマド」(意味は「遊牧民」という。安い切符の手配などいろいろと協力してくれた。かなりの資料・文献を収集した。レクチャー参加者には、その中から好きな本をもってかえることを勧めていた。
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途中で、田中信義さんが、自著を示しながら「ヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)について短い講話をしてくれた。いわば「ヒエログリフ」は、東洋の書と同質の象形文字である。また世界中に置かれているエジプトから持ち出された「オベリスク」を調査しているという。 最後に岡田は、旅に使うジャケットや鞄、さらに大好きなコーヒーを現地で飲むための道具を披露してくれた。9月には、書人として「ヒエログリフ」を主題にして書展(ギャラリーエッセ)を計画している。どんな作品を出品するか、楽しみである。
(文責・柴橋)

2015年12月 7日 (月)

第56回 未来から縄文を取り戻す—叙事詩『原郷創造』を書き終えて

第56回=2015年7月30日(木)

●講 師=原子 修(詩人)

1932年函館生まれ。詩人・札幌大学名誉教授。詩集『鳥影』

(北海道詩人賞)、『未来からの銃声』(日本詩人クラブ賞)、『受苦の木』(現代ポイエシス賞)。叙事詩『原郷創造』。詩論書『〈現代詩〉の条件』。詩劇『狗-赤き櫛に梳かれて果てよ黒髪の闇-』など49作品101公演を国内・外で創作・上演。メルヘン『月と太陽と子どもたち』(北の児童文学賞特別賞)。
札幌芸術賞、北海道文化賞受賞。北海道文学館参与、北海道龍馬会会長、縄文芸術家集団JAM代表、日本文芸家協会員、日本現代詩人会員。

●テーマ=未来から縄文を取り戻す叙事詩『原郷創造』を書き終えて

縄文の魂が臨在した一夜

 
第56回レクチャーは、「サラ」としては初めての詩人による講話となった。詩人の原子修(はらこおさむ)に「未来から縄文を取り戻す―叙事詩「原郷創造」を書き終えて」と題して講話を戴いた。 まず冒頭で、挨拶の代わりとして詩「白鳥」の朗誦があった。それは詩霊を降下させる儀礼となった。さらに平和を祈願する意志を込めてギリシャの歌手ナナ・ムスクーリが歌う「律気な船乗り」を聞かせてくれた。
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レクチャーは、念入りに準備されていた。8つのセクションで構成。最初は、「原子の秘密」「祖霊との出会い」について。祖地は、青森県・津軽・五所川原・梵珠山・前田野目川・原子遺跡となる。原子とは、縄文語・アイヌ語で「パラコッ」(広い谷)」を意味するという。続けて祖霊を臨在させた。中盤では、独自な歴史観に立脚した文明史を力強く展開した。
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W・H・マクニールの「世界史」やレヴィ・ストロースの言説(ディスクール)を「鍵語」としながら、これからは新しい「文化」の時代が到来せねば、という。 原子は「文明」とは「物・技術・知能」に関わり、「文化」は「心・言霊・知恵」と交差するという。
この視点を、思想の源泉にして、巨視的な地平から、ユーラシア系文明・文化複合の限界と危機を突いていった。 この視点は、原子が世界の処々を歩きながら、そこで諸民族(少数民族もふくめて)と出会い、いかに農耕文明をベースにした金属器文明が、貧富の差、階級差を生み、さらに権力や暴力装置を作り出し、その必然として侵略や戦争が日常化していったかを知らされた。
実にその暴力装置が肥大化し、第1次世界大戦では900万人、第2次世界大戦では5500万人の死者を生み、破滅的な核エネルギーまでつくりだしてしまった、と。最後に、我々人類の再生の道を作り出すことが、大切であると、心から叫んでいた。
詩人として、再生と危機回避のために、大きな詩的ヴィジョンを構築した。それが叙事詩『原郷創造』となって結実した。 原子は、日本には、「抒情詩」の伝統はあるが、「叙事詩」の作品が皆無に等しいという。たしかに古くは「古事記」などの「叙事的散文」はあるが、それ以後は、「これは」というものは生まれていない。原子は、そこに風穴をあけたいと挑んだ。この「こころざし」の高さには、驚くばかりである。
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広い知識や高い見識をもった人は多いかもしれない。ただそれに加えて燃え上がる情熱をエンジンにしながら、身心を天地の前に晒しながら、魂に語らせる詩人は少ない。私は、レクチャーを聴きながら、この表現への激しい発熱、その力がどこに由来するか考えた。一面では詩人が未来を透視し、「見者」となり、それをヴィジョンとして顕現させたことには違いないが、何かそれとは異質なものがあるとみたい。それはなんだろうか。どこが異質なのであろうか。原子は、時代を憂いながら、縄文文化を再生の「モデル」とする。なぜなら縄文世界には、「暮らし人の多幸感」があり、大自然との共生があり、最も大事なことは、万物に霊があるという生命観(アニミズム)があり、小さな愛にみちた平和な生活協同体が存したからだという。原子は、さらに言を重ねる。縄文には、1万年間にわたって戦争がなかったという。まさにこうした縄文的視座が、その詩的ヴィジョンを下から支えているのだ。この視座と共鳴するのが、評論家柄谷行人が提起する「無支配(イソノミア)の思想という。柄谷は、古代ギリシャのイオニア地方の都市国家には、それはあったという。
原子は、この講話の中でも、この「無支配(イソノミア)の思想は、縄文にも当てはまると強調していた。柄谷は、イオニア地方では「人間と世界を一貫して自然として見ること」をし、「人間への愛」が根付いていたという。柄谷は、さらにホメロスとヘシオドスの「叙事詩世界」の普遍性にも言及している。 原子修は、「縄文こそは人類の希望」であると宣言する。こうした詩的ヴィジョンを、詩劇にしていくことも考えているようだ。
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預言者たる原子の夢は、広く大きい。あとから聞いた話では、叙事詩『原郷創造』のフランス語版も構想し、音楽化(オペラ化)も企図しているという。それが実現することを願わずにはいられない。混迷する世界中に、縄文の「無支配(イソノミア)思想や、すべての生物を愛していく、平和の民のことを知らせていくためにも…。
(文責・柴橋)

2015年12月 6日 (日)

第55回 建築のグローカルなアルカディアを求めて

第55回=2015年6月26日(金)

●講 師=山本 謙一(建築家)

1961年札幌生まれ。北海道大学院卒業(建築計画学専攻)。
トマムリゾート設計で北海道庁赤レンガ建築賞受賞。1995年札幌青年会議所ヘルシンキJC賞。1999年文化庁指定国際芸術交流事業S-AIR立上げ、
事務総長、代表歴任。作家選考委員で活躍中。
2001年アウラ・アソシェーツ都市建築設計所長就任。

2008
年国際建築家連盟UIAトリノ世界大会、旧サヴォイア王宮、2010年UIA関連事業バルセロナで作品発表。

●テーマ=建築のグローカルなアルカディアを求めて

グローカルな建築をめざして
第55回レクチャーは、建築家山本謙一にお願いした。題して「建築のグローカルなアルカディアを求めて」。実は、会場となった「ト・オン・カフェ」の設計に、山本謙一が係わっている。また「サラ」が主宰する「北の殸アート賞」ではスポンサー企業として、この文化育成事業に賛同し、「エスポワール」賞を設けていただいている。幅広く文化支援活動にも積極的にかかわり、多方面で活躍している。
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山本謙一は、現在「アウラアソシエーション都市建築設計」の代表をしている。はじめに自らがめざす建築空間とは何かを語ってくれた。「現在を讃え 生き長らえ佇む人の詩的背景であり また一方で未来へ向けて またその人への詩的ヴィジョン、展望であり、その人にとって、五感を伴い3次元の展開する時間芸術である」。生の風景と絡み、「詩的背景」を持ちながら、「五感」を介在させる時間芸術という。生きること(生活することも含め)と建築との関わりに深く切り込むコンセプトを包含している、そんな哲学的な言葉でもある。
では山本の「生の原点」とはどんなものであったか。「家(業)の存在」が大きいという。祖父は大工の棟梁。父はその跡を継ぎながら画家も目指していた。そのためか(ドローイングや図面などを引くためであろうか)家には黒板が据え付けられていた部屋があった。山本少年は、その黒板にチョークでドローイングなどをよく描いた、という。建築を意識したのは中学生の頃という。北大に進学し、北に住んでいることを踏まえ、寒冷地建築や環境デザインを研究した。
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さてタイトルにあった「グローカル」とは、「世界普遍化」(globalization)と、地域の特色や特性に視点を置く「地域限定化」(localization)の2つの言葉を組み合わせたもの。また「アルカディア」とは、「理想郷」のこと。つまり「地球規模」で思考しながら、なにより足元(地域の特性)を大切にして、理想的な人間的な空間を作り出していこうとすることのようだ。
こうした高遠な視点に立ちながら、山本は北海道の地域特性たる寒冷性や豊かな四季を強く意識して空間デザインをしている。本州にはない風土の特性(個性)、たとえば「雪の光」なども魅力的という。また一方で「世界普遍化」にもチャレンジしている。これまでも国際的場(トリノやバルセロナ)で作品発表をしている。こうした国際化と地域化、その両方を融合させるために奮闘する。なかなか意欲的、先進的である。
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先の言葉「現在を讃え 生き長らえ佇む人」について、その背景を語ってくれた。「家の力」に言及した。「都市は大きな家 家は小さな都市」であると。その「小さな都市」の典型が個人住宅というわけだ。個人住宅は、とても大切であるという。なぜならクライアントの要望に沿いながら、そこに住む家族が、「生き長らえ佇む」ことができる空間をつくりことである、さらに未来を託することができる空間を築くことができるからという。そう考えると、建築家とはなかなか素敵な仕事といえる。
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レクチャーの中間部で、これまで手掛けた作品をスライドでみせてくれた。[道営住宅北26条団地](これは北海道庁が初めて実施したプロポーザル事業。応募し、最優秀賞を得た作品)や[智徳寺]などや個人住宅、さらにススキノの有名な鮨店など。
常にコストダウンを心がけ、デザインする時には、二項対立(狭いー広い 低―高)の概念をうまく使いながら、「住む人」の身体に感応するように行っているという。
最後に、映画監督と建築家は「近い」という。その意味を詳しくはのべてくれなかったが、察するに、双方ともにさまざまな人や素材(物)を使いながら、それを生かして、見る者や住むものに夢や力を与えてくれるからではないだろうか。今後、北の風土や歴史に根ざしつつ、どんな映画のような創造的な建築作品をみせてくれるか楽しみである。
(文責・柴橋)

2015年12月 5日 (土)

第54回 日本の作曲家の黎明期からその後

第54回=2015年5月29日(金)

●講 師=八木 幸三(作曲家)

1955年札幌生まれ。北海道教育大学特設音楽科卒業。ハンガリー、ゾルタン・コダーイ音楽教育研究所修了。これまでに管弦楽・合唱・室内楽・吹奏楽・ミュージカル作品など多数作曲。札幌市新人音楽会作曲部門、北海道現代音楽フェスティバル、北海道国際音楽交流協会音楽会、英国エディンバラ音楽祭などに作品発表。昭和60年度札幌市民芸術祭奨励賞

受賞。2013年第2回「北の聲アート賞」奨励賞受賞。

●テーマ=日本の作曲家の黎明期からその後
黎明期の作曲家、その群像
第54回レクチャーは、作曲家八木幸三にお願いした。八木は、今年度より「サラ」運営委員となり、さらに「北の聲アート賞」選考委員ともなっている。
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テーマは、「日本の作曲家の黎明期からその後」。代表的作曲家にスポットをあてて明治以降の日本の音楽シーンを紹介してくれた。そこに燦然と輝く、数人の作曲家がいる。まず瀧廉太郎である。肺結核により23歳で夭折した悲劇的人物であるが、その実像を知ることはないかもしれない。瀧家は由緒ある家系である。江戸時代、日出(ひじ)藩の家老職をつとめていた。生まれは、現在の大分県だった。父は、内務官僚だった。滝は、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツのライプツィヒにあるライプツィヒ音楽院に留学する。実は、この音楽院の設立者は、メンデルスゾーンだった。ここでピアノや対位法などを学んだ。が、わずか2か月後に肺結核を発病し、約1年で帰国を余儀なくされた。瀧というと「荒城の月」「花」のように歌曲の作家というイメージが強いが、ピアノ曲「メヌエット」を作曲しているという。それが「憾(うらみ)」。死期が近いことを悟って作った。それを聴かせてくれた。凄いタイトルと感じたが、内心が表出した静かな曲だった。
2人目に紹介したのが山田耕筰。山田は、ベルリン王立音楽院に留学した。そこでカール・ウオルフに師事し、古典的な和声法を習得する。実は、山田のドイツ留学は大変興味ふかいものがある。八木は時間の関係で触れていなかったが、当時のベルリンは前衛芸術の基地となっていた。美術ではドイツ表現主義、舞踊ではジャック・ダルクローズ学院などが有名である。そうした前衛芸術を日本に持ち込んだ先駆者でもある。
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さて八木は、山田の功績の1つに、日本初のシンフォニーを創作したことを挙げていた。早くもベルリン時代には日本人初の交響曲「かちどきと平和」を作曲した。また日本初の交響楽団の創設にかかわっている。またグランドオペラ「黒船」は優れているという。この「黒船」(当初の題名「夜明け」は、題名のように黒船来航を題材にしている。
そんな先駆的仕事をした山田であるが、影の部分もある。太平洋戦争後の戦時体制下では、「日本音楽文化協会」(「音文」)の発足に関わり、皇紀2600年奉祝演奏会では指揮をし、「満州国」にも出向いている。それで戦後は、音楽評論家山根銀二との間に戦犯論争が勃発した。光と影。その両方がある作曲である。また私生活はかなり派手であった。山田は、ピアノ曲として哀詩「荒城の月を主題とする更衣曲」を作曲した。それを聴いた。どこかショパン的でリリカルだった。私は山田の別な相貌をみた。さらに信時潔と貴志康一について語ってくれた。信時潔は、日本人の心を歌にした。一番有名なのが「海ゆかば」であろうか。ただこの「海ゆかば」は、「大本営の音楽」として利用された。八木は大規模なカンタータ「海道東征」(詩は北原白秋)を、貴重なSP版の演奏で聴かせてくれた。そこには雅楽の響きもあった。
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後半は、貴志康一と尾高尚忠を論じた。ここでは紙幅の関係で貴志康一について短くのべておきたい。28歳で亡くなった夭折の作曲家である。フルトヴェングラーに師事、ヒンデミットに作曲を学んでいる。また指揮者としても活躍し自作を、ベルリンフィルハーモニー交響楽団を指揮して録音した。2009年に生誕100年を迎えた。代表作はヴァイオリン曲「竹取物語」、交響曲「ブッダの生涯」などがある。湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞の後の晩餐会の時に、貴志の楽曲が流れたとされる。優れた才能の持ち主のようだ。病気で亡くなることがなかったらどんな名曲を残してくれたか計りしれない、とも感じた。
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私はこのレクチャーを聴いて、日本の黎明期の作曲家は、ドイツ音楽を手本にしていると感じた。また太平洋戦争下にあっては、体制翼賛のシステムに拘束された。そんな「戦争と音楽」という難しい問題も孕んでいるが、曲が量産された時期でもあり、力作もおおいという参加者からは、こんな声があった。「作曲家の人物と作品紹介にあわせて、音を聞かせてくれたので、理解することができた」「普段はなかなか聞くことができない話を聞けてよかった」「日本の作曲家にも、優れた音楽家がいたことが分かった」「ぜひ、この後の時代のことも話してほしい」。全体として、短いまとめではフォローできないほどに、豊かな内容の講話だった。
(文責・柴橋)

2015年12月 4日 (金)

第53回「大地/開墾」の歩み

第53回=2015年4月24日(金)

●講 師=楢原 武正(美術家)

●テーマ=「大地/開墾」の歩み

「野生」の感覚人
第53回のレクチャーは、楢原武正(美術家)に「大地/開墾」をテーマに語ってもらった。2014年度「北の聲アート賞」(きのとや賞)を受賞し、それを記念したレクチャーとなった。最初にこれまでの人生の「歩み」を語ってくれた。
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1942年に広尾町・豊似(とよに)で生まれた。父・茂正は、造林の仕事をしていた。 学びは、小・中・高1(大樹高)まで、十勝の地だった。 「手に職」をつけるため、帯広職訓へ行き、塗装(1年間)の技術を身につけた。それを活かして1961年より「ライオン工房」(帯広・看板業)に3年間勤務。1964年から一時東京で仕事をした。ちょうど東京オリンピックの時期と重なった。1967年には、札幌で独立し、「ライオン工芸」を立ち上げ、現在に至っている。
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1970年代はじめに、具象系油絵を描いていた。その時期の作品をみせてくれた。ペィンティングナイフを使った「羊蹄」「子供」「遊園地」など。1975年に 「新道展」(公募展)に出品し、そこに1987年に退会するまで属した。
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また中央の「行動展」や抽象派作家協会 (渡辺伊八郎らと交友)にも1989年に退会するまで参加した。次第に空き缶、針金、トタン、廃材、機械部品などの素材を用い、作品のスケールも大きくなり、野外制作も頻繁になる。いわばアサンブラージュ(廃物などを集合する)のスタイルをとった。
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さて楢原といえば、捨てられた素材にいのちを吹き込むスタイルが有名である。造形体は量塊性を保持しながら、さらに見るものの身体全体を包みこむような壮大な空間(光景)を現出した。道立帯広美術館(1993年)の個展では、450人の市民と共同制作し大きな感動を与えた。また10回続いた札幌大通美術館では、毎回全室を使用し、見るものを圧倒した。「札幌国際芸術祭2014」に関連した「500メートル美術」では、20メートルの作品に挑んだ。また厚別の小学校では子供達と共に「いのちを育む空間」として「鳥の巣」を造形した。
この美術家は、作品をつくるために、「叩き」「潰し」「釘を打つ」などの行為を積み重ねる。荒々しい造形物ではあるが、きわめて手を使った人間的なジャンクアートである。そこには、私は彼特有の「野性の感覚」があるとみている。それは、深く生育した「十勝の原野」が絡んでくる。原野の原風景、そこに生起する大地の生命力。それを強く感じる。この美術家の作品をみると、表面的にはたしかに荒々しくみえるが、実はそこに「生の力」が息づいていることを知る。つまりどんなことがあっても生きようとする意志を感じることになる。
この美術家は、自分の仕事(看板づくり)と造形が密接に繋がっているという。むしろそれを大切にしているという。普通なら、生計を立てる仕事と造形作品とは別と切り離すことがおおい。楢原は、そうしない。なぜだろうか。私の見方によるが、それだけ日々の労働を大切にしながら、生活と創作を繋げていこうとするためであろうか。つまり労働(生活)と創造的行為を一致していかねば、真の表現はできないと考えているためである。
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さてこれまでの制作作品に関して、寄せられた批評を、紹介しておきたい。「これはモニュメントというよりも1つの実在なのである」(瀬木慎一 1987年)「楢原武正は、北海道がうんだ北のスサノオである。」(電光の荒魂―北のスサノオ 菱川善夫) 「本能的ともいえる制作へのエネルギーであり、様々な様式や制度にとらわれない裸形の精神であり、また物質との直裁的なかかわりであった」(佐藤友哉 1992年) など多数ある。
このレクチャーを聞きながら、やはりこの美術家には、荒らしい北方的感性や不屈の開拓精神が宿っていると感じた。そしてその作品空間からは、「いのちのかたちを見失っている現代人の荒廃した心」に、「1つの種子」を植えようとしているといえる。また「書」にも挑戦するという。(文責・柴橋)

2015年12月 2日 (水)

第52回 「私の好きな色、形、線」

第52回 2015年2月27日(金)
高橋靖子(美術家)

帯広市出身。1970年代より全道展に出品。1980年、自由美術展に出品。油彩画、水彩画を描き、近年より布に糸の作画を始める。抽象表現で大作・小品のグループ展、個展多数。「札幌の美術19+1試み展」(2003)市民ギャラリー、「知覚される身体性」(1998)「Living Art」(2011)芸術の森美術館、2012年に500m美術館で「過剰化する表現」を発表。

現在、自由美術会員、全道展会員、民族芸術会会員。


テーマ=「私の好きな色、形、線」

日常を「編」む美術家
タイトルは、「私の好きな色、形、線」。このタイトルに添いながら談論風発の華が咲き、意味深いレクチャーとなった。幾つかの理由でレクチャーを高橋靖子にお願いした。
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1つは現在も第1線で全道展や自由美術を軸にしながら、グループ展にも参加し、精力的に作品制作に挑んでいる姿がとても光っているから。まさに「光る女性」であるから。1つはその作品の現代性である。絵画と自分の関係をしっかりと押さえながら、常にブレがないこと。さらにもう1つある。最近は絵画制作と並行して、小さな織の作品づくりをしていること。多くの人がその小さな作品を愛している姿を目撃していることも大きい。
そんなことでぜひともレクチャーをお願いした。最初に短く人生の歩みを語ってもらった。1932年に帯広に生まれた。帯広で青春時代を過ごし、感性を研磨した。帯広三条高等学校の一期生で、美術部に所属した。高校3年で静物画を描いて道展に初入選した。1953年に札幌医科大学看護学校卒業した。 ただ看護の道を歩むことなく、医者と結婚へ。そして家事と育児などに追われた。そのため絵画制作は一時休止となる。
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絵を再開する。この時期の作品をみせてくれた。具象系の「兎小屋」(1980年)「傘をさす女」(1981年)などである。次第に抽象志向が高まる。空間構成と平面思考が主体となる。これが1981年から82年頃のこと。「青の抽象」(1982年)が代表作だ。さらに変化がうまれる。抽象化の中に揺れ、リズムが生まれてくる。画面にグラデーション(ストライプ)がたちあらわれ、タイトルに色彩名がつけられる。
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興味ふかいことに、そこに「イニシャル」を記号のように描いた。つまり高橋靖子の「T」「Y」が文字化してくる。これは2002年頃から「記」のシリーズへと継承された。こうして「抽象の自立」に平行して「心の揺れ」や「自由な造形感覚」を盛り込みながら、「文字(言葉)の介在」が起こる。この流れから判明することは、常に絵を描くとき「今、ここに生きていること」をベースにおいていることだ。かつて私は彼女の作品をこう評したことがある。「タブローの平面は、横の動きが軸となっている。この水平軸にそって短い数字・アルファベット・記号・ごく短いストローク・しるしなどを描いていく。
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つまり生きていることすべてが絵をえがく要素なのだ」と。この観点を変えるつもりはない。なぜなら彼女の作品は、自分の「生の記録」でもあり、特に日々の生活、その営みとアートは密につながっていることを示しているからである。つまり「造形思考」の下地に「日常」(時間)を置いている美術家である。 さらに「平行して糸を刺すワーク」がくる。
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これは2009年頃から始まる。そのきっかけを話してくれた。「冬の時、家の中で、手仕事としてはじめた」。つまり「夜なべの仕事」だった。そして「糸の張り、ゆるみ、織の感触がとてもよかった」という。 これはある展覧会の図録に記した彼女の言葉である。「私は、1人の女性として時間を紡ぎ、人間の営為を編んでいる。」「繭の中に入った私が、目にはみえない人間の裏側や心の淵といったものを手さぐりして…」(「知覚される身体性」)。実に気負いのない、澄んだ心から染み出てくることばである。
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私は、このレクチャーを通じて、現代美術は画家の私的心理の投影がとても大切な因子になると感じた。なぜ大切かといえば、「私的心理の投影」が、見る者に反射作用を起こし、その人の心の中に住み始めるからである。そんな心的作用を発生させる装置でもある。そしてここで鍵となるのが、「色彩の視覚作用」である。そして画家の手の動きである。これが「抽象の力」の魅力ではないだろうか。(柴橋伴夫)

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