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2015年1月

2015年1月29日 (木)

第50回「芸術家たちのネットワーク 1910年代パリ」

芸術家たちのネットワーク 1910年代パリ」  -開催日2014年11月28日(金)-

講師

柴 勤(美術評論家)

 1953年茨城県生まれ。20歳から北海道在住。30年以上、美術館の学芸員を勤める。専門はフランス近代美術。中でも20世紀前半のパリ、世界各地から集う芸術家たちが形成したネットワークに関心を持つ。現在、調査の核心はマリー・ヴァシリーエフというロシア出身の女性画家。その多彩な創作活動に加え、芸術家たちの紐帯として活動した「縁の下の力持ち」的役割の解明に意欲を注ぐ。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F

受講者??

文化の縁の下の力もちヴァシリーエフ

柴勤(美術評論家)に、1910年代にパリを舞台にして芸術家のネットワークを築いたロシア出身の女性画家マリー・ヴァシリーエフ(1884-1957)にスポットに強い光を照射してもらった。日本の美術界では、よく「エコール・ド・パリ」が話題になる。当時パリに集合した異邦人画家たち、モジリアニ、パスキン、シャガールらは知っていても、ロシアのスモレスク生まれのヴァシリーエフは傍流的存在としてほとんど話題にされてこなかった。いや存在さえも知らされていなかった。

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このヴァシリーエフは、21歳でパリに来てから、実に多彩な創作活動をしていた。その一例をあげてみたい。画塾「アカデミー・ヴァシリーエフ」(ロシア・アカデミー)を創設し塾長に。画家ブラック、ピカソ、レジェ、マチィス、モジリアニ、評論家サンドレ・サルモンなど錚々たるメンバーが協力してくれた。さらにアトリエの一部を「カンティーヌ」(簡易食堂)に改造した。スェーデン・バレーの衣装やマスクを作り、芸術家の肖像人形を創作して名を挙げた。また装飾美術の分野でも家具などを製作。さらに1930年代には、困窮者救済団体のために活動した。

そんな、まさしく芸術家たちの紐帯として活動した、いわば「縁の下の力持ち」的存在であった。

柴勤は、ヴァシリーエフの人物像に関心を抱いて、フランス・パリで調査をした。柴勤は、2008年に美術館連絡協議会(美連協)からの海外派遣制度を活用した。申請テーマは、「第一次世界大戦下のパリにおける芸術家の社会史~ヴァシリーエフのカンティーヌ(簡易食堂)を中心に」だった。

今回のレクチャーは、その調査研究の成果に基づくものといえる。

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さて初めに映像で「エコール・ド・パリの画家群像」を、続いてパリの路上・カフェなどで交友する仲間達が写った写真を紹介してくれた。そこには画家レジェや詩人サンドラールなどの「ロシア・アカデミー」の協力者、さらにパリの路上・カフェなどで交友するヴァシリーエフの姿があった。

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私はこのレクチャーを聞きながら、柴勤が<芸術家の社会史>の視座に基づいて、いかに丁寧に資料調査をしたか、その労に感服した。それを支えたのは、多面性を帯びた、日本では知られていなかったこの女性画家への熱い共鳴であろうか。と同時に実際には、調査は大変だったに違いないとも感じた。聞くと、滞在した3ヶ月間、毎日のように図書館通いをして、文献・資料を漁った。でもそれは幸福な時間だったという。調査の中でヴァシリーエフのコレクターたるベルネスさんの存在も知った。彼の自宅でヴァシリーエフ作品を直にみたという。

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ヴァシリーエフには、パリの日本人画家も世話になったという。藤田嗣治、川島理一郎、小柳正らがいる。藤田らは、カンティーヌ(簡易食堂)で炊事や皿洗いまでした。

このパリの「肝っ玉かあさん」ことヴァシリーエフは、パリ14区にヴァシリーエフ美術館を開設した。現在も、そこにあるという。ヴァシリーエフという存在。知れば知るほど、気になる存在である。いつの世にも、こうした縁の下的存在がいるものだ。そこから真の文化が生まれるのではないだろうか。

このレクチャーが「サラ」の50回記念となった。レクチャー終了後、参加者とともに短く祝いの会をもった。この「サラ」もヴァシリーエフのような文化の「縁の下的存在」を、さらに目指していかねばならないと決意を新たにした。

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(文責・柴橋)

第49回「北の四季を炎に込めて」

SAPPORO ART LABO 2014 サッポロアート・ラボ 第49

北の四季を炎に込めて」  -開催日201410月31日(金)-

講師

中村 裕(工芸家)

 1954年北海道美幌生まれ。日大工学部建築学部卒。1978年京都市立工業試験場(窯業本科)入学。1982年に滝野に築窯し、1991年、駒岡に窯を移築。東京三越日本橋他多数個展開催。主な入選に「日本陶芸展」「第5回現代茶陶展」「第1回茶の湯の現代展」など多数。受賞歴として1991年札幌三越賞、淡交社賞、2013年TOKI織部賞などを受賞。

現在、北海道陶芸会会長。草の窯主宰。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F

受講者??

北の四季への<愛>を感じた


美幌生まれの陶芸家中村裕にレクチャーをお願いした。タイトルは「北の四を炎にこめて」だった。現在は、北海道陶芸協会の会長を務めており、多忙な中時間を割いていただいた。初めに今回のレクチャーのために、特別に美幌や道東に足をのばして写真撮影した風景などをみせてくれた。中村は、生地美幌では、野に遊び草花を愛し、昆虫採集などに熱中したという。さらに中学生時代には、自転車で隣町へ、冬には阿寒湖へワカサギ釣りに行った。高校生時代は、SLで網走まで通学した。

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豊かな無垢な自然の風景は、中村の目と心に織り込まれたようだ。スクリーンに映しだされた風景は、いかにも北海道的な、とても美しい風景だった。それをみていて、これは中村の原風景だと感じた。また創作の原点にある情景だとも確信した。湖の霧。野の靄。地平線に漂う凛とした<気>。そして茜色にそまった空の景色。その1つ1つが、作品のモチィーフとなった。いやモチィーフというのは正しくない。作品づくりは、微妙な湖の霧や野の靄を懸命に再現したという願いに支えられているともいえるからだ。様々な試行を重ねながら、北の凛とした、澄んだ<気>を掴むためにいまもなお全力を傾倒しているのだ。

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私がとても驚いたのは、中村裕の多才ぶりだった。美への憧憬、造形への関心はひときわ強かった。小学校の6年間、絵画教室で学んだ。11歳で描いた初油絵「バラ」には、独自なタッチがあった。彫刻への関心も強かった。ロダンに憧れていた。今回鉄を素材にした、19歳の時の彫刻作品「天と地と」を見せてくれた。生命的なフォルムやムーブマンが躍動していた。

また一時、インテリア・デザイン(室内デザイン)にも関心を広げていた。木の椅子は、木に陶器を嵌めたものでモダンな感覚に満ちていた。このように中村は、造形思考(関心)を多方面に広げていくタイプだった。凡才にはできない。やはりこれは生得的なものが作用しているのであろうか。ただジャンルを横断するこうした取り組みは、マイナスにはならなかった。なぜなら作品の用途性や実用性に縛られることなく、自由に空間思考を燃やすことができたからである。

さて陶芸への道を始めた経緯には、叔母(中村照子)の存在が大きい。京都で陶芸を研究する中で唐三彩、清水六兵衛、魯山人の作風に関心を寄せた。オリジナルなもの、自分らしいもの、それをどう表現するか悩んだ。また自分の感性にマッチした釉薬づくりも課題だった。中村は、鉄の釉薬テストの過程で、新生な緑色を得た。そこから「山並みシリーズ」を開始。さらに北の四季をテーマの深化を目指し、造形形式として「陶屏風」に挑んだ。ヒントになったのが京都の古寺などでみた屏風や日本画家岩橋永遠の「道産子追憶之巻」だった。会場では「陶屏風」の制作風景を映像でみせてくれた。

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北の四季の形象美。それをどう造形に昇華させるか。これが最大の難題となった。伝統ある工芸世界で認知される作品をどう生み出すか。中村は積極的に対外試合に挑んだ。入賞もした。そこで出会ったのが林屋晴三氏であった。試作を送り、何度もダメだし。作品に芸の深みがでることを目指した。この懸命な挑み。美を掴みたいという一心。これが功を奏した。現在の「雪原シリーズ」では、白い釉薬を繊細に使いながら独自な形象美を作りだすことに成功した。私は中村裕に大いに期待している。「用の美」を大切にしながら、ぜひとも道産子魂を燃やして世界にむけて北の四季の美しさをみせてほしい、とひそかに応援している。

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(文責・柴橋伴夫)

第48回「恵庭の美術状況」

SAPPORO ART LABO 2013 サッポロアート・ラボ 第48

恵庭の美術状況」  -開催日2014年9月26日(金)-

講師

高崎 勝司(版画家)

1945年幌加内生まれ。1973年に恵庭美術協会を立上げ創立会員となる。1976年に絵画サークル「えの具箱」講師として現在に至る。1988、2004年、恵庭文化協会文化奨励賞受賞。2011年に「えにわアートバンク」設立、代表となる。
版画家として、全道展に1999年より出品し、2008、2010年奨励賞受賞、2013年会友推挙。2013年から日本版画協会展に出品。
現在、恵庭美術協会会長。全道展会友。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F

受講者??

恵庭を愛する熱情を感じた

第48回例会は、「サラ」メンバーの高崎隆司によるレクチャーとなった。題は「恵庭の美術状況」。市の文化行政に係っていた水高和彦がスライド(映像)作りに協力してくれた。

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高崎も冒頭に触れていたが、どうしても恵庭は北広島と千歳と間に挟まれてやや「影」が薄い存在となっている。でも実際には、恵庭は文化と緑の街、そして「彫刻の街」の相貌をもっている魅力的な街である。私がスクリーンに映された映像から感じたのは、遠方には、恵庭岳、樽前山も見え、緑と水に恵まれた場というイメージだった。水は多くの恵みをもたらしている。それはここにサッポロビールの工場があることからも明らかである。

私は話を聞きながら、恵庭は「彫刻の街」という印象を強くした。川に架かる橋のバルコニーなどが造形デザインされ、橋上には佐藤忠良や鈴木吾郎などの具象彫刻が置かれていた。それはたしかに規模は小さいが釧路の幣舞橋を連想させた。


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 とてもユニークなのは、2000年から整備された「ユカンボシ彫刻公園」だった。名の由来は、「鹿の住んでいたところ」(アイヌ語)。森と沼、そしてその周辺が遊歩道となっている。そこに6人(佐藤忠良、植松奎二、山本正道、丸山隆、山谷圭司、渡辺行夫)の彫刻家の作品が点在している。まさに現代彫刻家の共演である。私も実見したことがあるが、緑と水になじんでいるところがいい。

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またここで恵庭にアトリエを持って活躍した彫刻家竹中敏洋(2002年に逝去・大分県出身)の存在も忘れることはできない。高崎は、このレクチャーのために竹中のアトリエを訪ねてくれた。竹中は「シャクシャインの像」(日高・静内)の作者として有名。また樹木や網などの水をかけ、自然のまま氷らせる氷瀑彫刻でも名を知られている。現在は、そこに息子さんと奥様(「ダンプかあさん」としても有名)が住んでいる。

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 さて高崎によると、この地の恵庭美術協会(会長・高崎)は、単なる美術愛好家の集団(会)に留まることなく、「文化行政」「街づくり」に積極的に参画しているという。

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アートスペース「夢創館」づくり、全国にも例がない市民へのアート作品の貸し出しを行う恵庭芸術文化宅配事業:「アートバンク」運動などに取り組み、活動の幅は実に広範である。この「アートバンク」には、現在110点をこえる作品が登録されている。


 この恵庭美術協会は、昨年創立40周年をむかえ、第45回恵美展を開催した。さらにアートイベント、ジャズ演奏とダム・ダン・ライ(ベトナム出身)のパフォーマンスのコラボレーションを行った。今回は、会場にその時制作したライさんの作品を展示してくれた。

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「アートと街づくり」。簡単なようでなかなか難しい。市民に受け入れられることが大切である。さらに運動の継続が大切になる。恵庭の取り組みには、その継続する意志を感じた。そしてなによりそこに参加したメンバーが、なにより自分の街を愛しており、それがエネルギーとなっているようだ。

(文責・柴橋伴夫)

第47回「ピアノのルーツ ハンマーダルシマーの起源と歴史」

ピアノのルーツ ハンマーダルシマーの起源と歴史」  -開催日2014年8月29日(金)-

講師

小松崎 健(音楽奏者)

1959年東京都足立区生まれ。駒沢大学卒。1986年デビット・ホルトの弾くハンマーダルシマーに感動、1986年から独学でダルシマーを始める。1988年ケルティックグループHARD TO FIND結成。自主レーベルから8枚、徳間ジャパンから2枚のオムニバスアルバムを発表。1989年にはソニーレコーズから3人編成のバンド「SCARA」としてCDデビュー。

2010年から、ユニット・ビロビジャンを結成。
2012年11月、第1回北の聲アート賞特別賞受賞。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F

受講者??

ハンマーダルシマー奏者・小松崎健(1959年生)とバスクラリネット(クラリネット)奏者・長崎亜希子(1975年生)のデュオ。結成は2010年12月。ユニットとしての活動歴はまだ長くはないが、小松崎は24年、長崎は12年と個々のキャリアを持つ。クレツマー音楽は、東欧系ユダヤ(イディッシュ)の民謡をルーツとする伝統音楽としてアメリカや中東のユダヤ人コミュニティで発展してきた。滞米時にこの音楽に接し触発された小松崎が長崎に呼びかけ、それぞれの楽器に見合った独自の編曲を施し、この2年ほど道内各地で演奏。最近では関西などでも活動を展開し好評を得ている。ちなみに「ビロビジャン」は極東ロシアにあるユダヤ自治州の州都名である。

講 評

きわめて珍しい楽器(ハンマーダルシマーとバスクラリネット)の組み合わせによる演奏は、コンサートのたびに聴衆に満足感をもたらしてきている。幻想的で哀愁を帯びた二人の演奏は、聴く者に、郷愁を誘うとともに不思議な安らぎをもたらす。これは小松崎、長崎の編曲・演奏技術の高い水準によるばかりではなく、二人が、迫害を逃れつつクレツマー音楽を伝えてきたユダヤの人々の困難な歴史への深い理解を共有していることによる。ユニットの力量は、北欧や南米の民族音楽においても発揮されており、北海道を拠点として日本を越え世界へと発信し得る稀有な魅力が備わっている。音楽への愛を存分に漂わせた演奏スタイルが好感を呼ぶのであろう。

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第46回「異文化と出会い ペルー・エジプトでの体験を踏まえて」

SAPPORO ART LABO 2013 サッポロアート・ラボ 第46

異文化と出会い ペルー・エジプトでの体験を踏まえて」  -開催日2014年7月24日(金)-

講師

佐藤 章(言語教育)

 1955年仁木町生まれ。1975年青山学院大学卒業。ペルーカトリック大学留学。1984年筑波大学大学院修士課程地域研究科修了。エジプト国立カイロ大学文学部客員助教授。1997年度文部省科研費補助金。

著書に『見えてくる北海道と日本のようす』
『SURVIVAL JAPANESE FOR YOU』など。

日本語教育学会会員。現在、北大・札幌学院大学非常勤講師。道新文化センター(苫小牧)講師。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F

受講者35

異文化交流の深さ、体験の重さを感じた
佐藤章のレクチャーは、幾つかのセクションに分かれていた。まず「ラテン・アメリカ滞在」について、その異文化との出会いを語ってくれた。佐藤は南米ペルーに1年半滞在した。滞在した1979年から1980年は、ペルーでは軍事政権が倒れ、民政に移管された直後であった。かつて日本はペルーを「秘露」と表記していた。そこへ多くの日本人移民も移住した。その移民を出自とする日系人にも日本語を教えた。佐藤は首都リマにある教皇庁立カトリック大学言語センターに席を置いた。
さて異国の地で生活すること。それはなかなか厳しいことである。が、その分実りも多かったという。カトリック系の修道院に世話になり、また日系デパートでアルバイトを行い、現地の人たちとも交流した。その時、国(文化)を知るためには、まず言葉を、さらに独自な習慣・風習・宗教・生活スタイルを知ることがとても大切であると感じた。子供同士の会話やバイトの仲間達のおしゃべりなどから、それを得た。バスの乗り方もちがい、時間も超ルーズ。ここでの体験から多民族、多言語が「世界の常識」であることを、身をもって味わった。実際にここでは、スペイン語、ケチュア語、アイラマ語など多数あった。
次に「中近東での滞在」生活を紹介してくれた。また言語の違いに直面した。現地語はアラビア語であるが、アンミーヤ(口語)とフスハー(文語)の違いがあった。
ここでは国立カイロ大学文学部日本文学科(1974年発足)で仕事をした。政治問題を論じることの難しさを感じた。とても驚いたことがあった。売る人は、買う人の国、人種により値段がかえていたこと。食べもの、タクシーも同様だった。これは日本では考えられないことだった。「郷に入っては郷に入る」という風にはなれないこともあるようだ。
こうした異国での貴重な体験から、佐藤は「国・人・語」を知ることがとても重要であると、学んだようだ。なにより多面的に「物をみる」ことが肝要であることや、狭い知識に基づいて「常識」を捨てることの大切さも実感した。言語だけでなく、質的な文化的差異もあるという。国により「空間意識」も異なり、「沈黙」の意味もずいぶんと違ってくるようだ。  
このように異文化理解とは、そう簡単ではない。ただ異文化との交流を恐れてはいけないようだ。積極的に「体験」を積みあげながら、「言語のニュアンス」「その国らしさ」「文化の質的差異」などを体得すべきようだ。
とかく私たちは簡単に「異文化交流」という言葉を使うことが多いが、佐藤のレクチャーを聞いていて、知識や「常識」レベル(ある種の価値観でもある)で、いわば皮相的に思考することでは、真の交流は難しいということを感じた。現在、北海道にも沢山の留学生や労働者が来ているが、私たちに1人1人が、その異国人(外国人)と深い交流をしているかどうか、気になってきた。そのことを検証することを忘れてならないとも知らされた。レクチャーには、北大国際本部留学センターで学ぶ学生達も多数きてくれた。共にいい学びの場となった。
(文責・柴橋伴夫)

2015年1月 5日 (月)

第45回「創造と想像をめぐって」

SAPPORO ART LABO 2013 サッポロアート・ラボ 第45

「創造と創造をめぐって」 -開催日2014年6月27日(金)-

講師

松橋 常世(建築家)

1947年秋田県生まれ。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒。建築家竹山実氏に師事。1983年に(有)松橋常世建築設計室開設。道内で設計活動を展開。札幌国際デザイン賞準大賞受賞。HDC商業デザイン最優秀賞道知事賞ほか受賞。

札幌国際大学他非常勤講師を歴任。現在、大谷大学非常勤講師。(公)日本建築家協会登録建築家。一級建築士。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F

受講者??

脳内が嚮導した建築話

建築家松橋常世(札幌在住)を迎えた。私はアーティストの脳内はどうなっているか、いつも興味がある。どうも松橋の脳内は、迷路のように複雑に入り組んでいるようだ。松橋は、SF作家の荒巻義雄と出会って、空想性に満ちた未来的建築「NEW UTOPIA CITY」を制作し、そのドローイングの精緻さや自在な空想性でも話題になっていた。

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さらに松橋は、「隠れた才能」をもっていて、「荒巻義雄の世界」展に合わせて開催された鴨々堂でのプログラムでは、仲間とジャズを演奏し、そこでドラムを叩いている。遊ぶ心や空想性を喚起するものには、無償に快楽を感じているようだ。だから映画「スターウォーズ」「ブレードランナー」などを好み、日常世界のただ中に存在する「北アフリカの鳩小屋」や「軍艦島」「超過密な香港の住宅」などに魅力を感じるという。まちがいなくそれらはこの建築家の脳を刺激し、「建築の可能性」や「都市の未来」を思索する大きな手がかりを与えているからにちがいない。

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こうした「空想性」を、未来的空間の構築と言い換えるならば、「夢みる空間」を提示する建築家ウィリアム・カタボロスや、「テラフォーミング」にみる「空想の果て」プランにも通底することになる。このウィリアム・カタボロスは、種子が発芽するように生命連鎖するプランニングを提示している。あまり聞くことのないこの「テラフォーミング」とは、調べてみると「人為的に惑星の環境を変化させ、人類の住める星に改造すること」をいう。これを「惑星改造」「惑星地球化計画」とも言われる。
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やはりこの建築家の脳内は、何物にも縛られることなく「スイング」し、自在に「別宇宙」を旅行しているようだ。

さてこのレクチャーでは、「ポストモダン的感覚」「ミニマリズム」「アーキグラム」など現代建築に係る言葉や概念が飛び交っていたが、初心者には少し難しかったかもしれない。個人的には、札幌出身の建築家竹山実や倉本龍彦らの作品論も聞いてみたかった。後半は、建築と社会の関係に焦点をあててくれた。私が特に関心を抱いいるのが、未曾有の災害「3.11」以後、いったい建築(家)は何かできるかという重い問いにどうこたえるかである。松橋は、野田正彰(精神科医 評論家)の、『頑張ろう』と復興ばかり強調すれば遺族はさらに落ち込んでいく、そうしてはいけないという指摘に着目しながら、いままさに大切なことは、「人の痛みがわかること」を建築に活かすことであり、そのためには、「建築家の創造力」が問われているとみている。この観点からみれば、社会的な話題となっている新国立競技場のプランをどう決着つけるか、おのずと決まってくるはずなのだが、実際はそうはなっていないようだ。これは個人的感慨ではあるが、日本人の建築家はまだ西欧化の呪縛から逃れられていないと感じる。

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21世紀はさかんに「アジアの時代」ともいわれる。とすれば東洋主義や日本人の美学的感性に根ざした建築論がもっとでていいはずなのだが、それがすくなすぎる。静謐な五感空間の極みである日本の茶室。超ミニマルな空間。そこで人の心が触れ合う。これもまた「創造の空間(器)」にちがいない。全体として「想像」と「創造」の狭間で、いろいろなことを考えさせられたレクチャーだった。
(文責・柴橋伴夫)

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