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2014年3月

2014年3月19日 (水)

第41回「世界一になった小津安二郎 」

SAPPORO ART LABO 2013 サッポロアート・ラボ 第41

世界一になった小津安二郎 」  -開催日2014131日(金)-

講師

中澤千磨夫(評論家 

1952年札幌生まれ。1976年北海道大学水産学部水産増殖学科卒業。1987年北海道大学大学院文学研究科(国文学専攻)博士後期過程単位取得満期退学。著作に『荷風と踊る』(1996年)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(2003年)、共著に『大江健三郎とは誰か』(1995年)、『だから子どもの本が好き』(2007年)、『永井荷風 仮面と実像』(2009年)など。現在、北海道武蔵女子短期大学教授。 

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F

新視角の小津安二郎論が面白かった

2013年に生誕110年を迎えた映画監督小津安二郎。その小津の研究者として幾つかの本も書いている中澤千磨呂にレクチャーをお願いした。90分を特急のスピードで疾走してくれた。「小津の人生」のこと、「小津映画」の魅力、「小津とアジア」など談論風発。後から気づくとこのレクチャーは、まるごと1冊の本と同価値があると感じたほどだった。

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レクチャーは、終始バックに「東京物語」を流して行われた。まずタイトルの「世界一になった小津安二郎」について話してくれた。国際的には黒沢明、溝口健二、衣笠貞之助らが先陣を切り、いわば小津映画は長く不遇の時代が続いた。1958年ロンドン国際映画祭で「東京物語」が、「サザーランド賞」を受け、1960年代から70年代に入り、ドナルド・リチーらによる小津の関する研究・映画論が出され、遅まきながら小津に光が当たった。20128月には、「東京物語」が英国の映画誌のランク(監督部門)で第一位、批評家部門では第3位となった。(余談を1つ、因みに中澤個人としては、第1位は、「2001年宇宙の旅」、第2には、小津の「麦秋」という。)さらに「小津チルドレン」とよばれる映画監督達(ヴィム・ヴェンダース、アキ・カウリスマキ、周防正行、岩井俊二、是枝裕和など)が、様々な形で小津に影響をうけ、オマージュを捧げている。

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中澤は、小津の精神を形成させた「場」(トポス)に言及した。個人的には、この辺の話が一番面白かった。東京市深川区万年町生まれ。自己形成は、三重(松坂)の場という。小津は、大学受験に失敗し、三重の飯南尋常小学校の代用教員となった。当時は、まだ木炭バスが走っていた。授業では、映画の話やローマ字を教え、マンドリンを弾いた。そんなユニークな先生だったようだ。実は、当時の教え子達が現在も「偲ぶ会」を開いているという。中澤は、そこに呼ばれて話をしてきている。地方で小さい会が小津を偲んでいる、とても小津らしいと感じた。その後、教員を辞め、小津は叔父の伝手もあり、松竹キネマ蒲田撮影所に入社し、映画人として名を馳せていく。

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 中澤の話で、もう1つ興味深かったのが、小津の戦争体験のこと。小津は、1937年に盧溝橋事件が起こり中国戦線へ。南京陥落後の状況を目撃し、漢口作戦にも参加した。また太平洋戦争時は、軍報道部映画班に徴集されインドネシアへ。そこでは国策に従った映画づくりを行い、日本軍が接収した多数のハリウッド映画(「風と共に去りぬ」「市民ケーン」など)をみている。敗戦後は、抑留生活を送り帰国している。その後は『東京物語」(1953年)などを監督し、「家族とは何か」問い、独自なアングルと小津調と呼ばれるトーンが個性的な作品を多く残した。さて小津の戦争体験と映画。これは、個人的にも関心がある。よくいわれるように小津映画には、軍人は1人も登場しないし、いつもスクリーンには静かな時間が滔々と流れている。

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中澤は、中国戦線での小津の足跡を訪ねているという。中澤は、2013年に上海(交通大学)で「志賀直哉と小津」という題で講話している。そこで中澤はこの時、中国(人)から見れば、小津は中国人を殺した軍人とみられても、違うともいえないと感じたという。小津の戦争体験。これをどうみるか。これからの課題かもしれない。私は、この刺戟的なレクチャーを聴きながら、おもわず北鎌倉の円覚寺にある小津の墓のことを想起した。小さな墓には、「無」とあるのみ。この時は、なぜ「無」なのか、不思議であった。このレクチャーを聴きながら、この「無」には、戦争の傷を内に抱えながら、深い哀しみを味わった小津の魂を象徴しているのではないかと感じたのだが…。

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(文責・柴橋伴夫) 

「建築家アルヴァ・アールトと北欧モダニズム」

SAPPORO ART LABO 2013 サッポロアート・ラボ 第40

「建築家アルヴァ・アールトと北欧モダニズム」  -開催日20131129日(金)-

講師

伊藤 大介(建築史家)

 1956年東京生まれ。ヨーロッパ近代建築史を専攻し、特に北欧フィンランドの建築や都市、住環境形成などを研究している。著書に『アールトとフィンランド』『ヘルシンキ-森と生きる都市』(共著)、『図説年表・西洋建築の様式』(共著)、『北欧学のすすめ』(共著)、『北欧の建築遺産』など。現在、東海大学国際文化学部教授。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F

受講者35


アルヴァ・アールトの建築美学

伊藤大介(建築史家)に「建築家アルヴァ・アールトと北欧モダニズム」と題してレクチャーをお願いした。フィンランド建築史において首座を占めるアルヴァ・アールトは、国民的存在で、切手や大学名にも名を残し、また建築、家具、ガラス工芸品など各方面で活躍した。

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一部には、「アルト」という表記もあるが、「アールト」は、伊藤大介の訳によるものという。アールトは、一時は客員教授となりアメリカに滞在したこともあるが、こよなく祖国フィンランドの風土と文化を愛した建築家であった。都市での仕事もあるが、豊かな自然が残った地方(田舎)でつくることをとても大切にした。伊藤の調査によると、主要作品179の内、国内が160、それに対して国外は19に留まるという。伊藤は、こうもいう。ル・コルビジェやミース・ファンデル・ローエらのモダニズム建築家と違うのは、アールトが「地方にねざしていること」ことが、「国際的である」という視座に立脚している点にあるという。

 

はじめに伊藤とフィンランド(建築も含めて)との出会いを語ってくれた。画家ガッレン・カッレラの原生林での住まい「カレラ」を訪ねることからスタートしたという。この画家は、民族叙事詩「カレワラ」を絵画化し、文字通り自然(森や湖水)とむき合う「森の民」の生き方を行った。それに伊藤は、強い感銘をうけ、フィンランド人がいかに自然と共に生きる民族であるか知らされたという。

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さて伊藤は、アールト建築の流れ(変遷)を順に追って概説してくれた。ひとまず「前期」(戦前)は、<ユヴァスキュラ期><トゥルク期><ヘルシンキ期>、「後期」(戦後)は、<1950年代―最盛期>、<1970年代―晩年期>と括ることができる。ヘルシンキで1976年に逝去するまで、各地でアトリエを開設し、精力的に仕事に邁進する。この短いまとめで、レクチャーの全容を総論することはとうてい無理なので、私が関心を抱いた作品について、少し紹介しておきたい。それはアールトの建築美学が宿った、自然と一体化した「マイレア邸」「イマトラのヴオクセンニスカ教会」「オサクラ邸宅」などである。ただ時代の要請で、工業生産方式の家も設計し、普通の人々の生活改善をめざしていることも忘れてならない。

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「マイレア邸」(規模が大きく豪邸)は、ハリー・マイレ・グリクセン夫妻から依頼されたもの。マイレは、フリーのアートスクールを創設し、展覧会を開催し、モダンアートの収集家でもあった。アールトは、この家の設計において、外の自然との繋がりを大切しながら、さらに「森のイメージ」を室内にも持ち込んだ。室内には、垂直な木のポールを林立させ、雑木林の観をみせた。家具もアールトの作品を置いた。また細部の造形には、竹や障子などの日本文化を導入したという。「イマトラのヴオクセンニスカ教会」には、光を効果的に取り入れていた。北欧圏では、光は特別な価値をもち、恵みのシンボルでもある。「光の力」は、「ロヴァニエミの都市センターにある『図書館』」にも生かされていた。「オサクラ邸」は、パイヤンネ湖の傍、岩盤の地形に立つ夏の家。家主のオサクラは古代言語学者で、アールト美術館創設を決めた人物という。形状は扇形の家で、島の荒々し景観と木々に溶け込んでいた。素材を生かした、素朴な空間が印象に残った。

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 このレクチャーを通じて、建築に留まることなく、「真の国際化」というのは何かを考えさせられた。インターナショナルなものが最高という見方があるが、果たしてそうであろうか。アールトが大切にしたように、独自な民族文化や風土にねざしたもの、つまり足元にある「地方的なもの」や「ナショナルなもの」こそが、インターナショナルのエネルギーとなるではないだろうか。アールトは、風土や生命の声を聴きながら、「森の文化」を終生にわたって至高なものとした。フィンランドと同じ北方圏に住む私達にとって、真のモダニズムとは何か、また国際化と地方性との関係を考える上で、大きな示唆を与えられたレクチャーであった。

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(文責・柴橋伴夫)

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