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2011年10月

2011年10月19日 (水)

「書と私」(現場制作とレクチャー)  

「書と私」(現場制作とレクチャー) -開催日 2011930日(金)-

講師

岡田 大岬(書作家) 

1945年札幌市生まれ。本名、弘徳。札幌北校(書道部)・北大法学部卒業。岬土社代表。独立書人団会友。北海道書人展審査員、北大総合博物館資料部研究員。北大遠友学舎「書」の講座講師10年連続個展を「遠友学舎」で開催。2010年6月社中展・「岬土社書展」(ギャラリーエッセ)。月刊個人誌「独住」発行。

■会場 札幌市市民活動プラザ星園 札幌市中央区南8条西2丁目

■受講者40

 


書の奥義に触れた

 サラメンバーの岡田大岬が登場してくれた。エジプト(カイロ)旅行から帰ったばかりで、髭が伸び少し痩せていた。書を実際に書くため、場をかえ近くにある市民活動プラザ星園の一室を借りた。タイトルは「書と私」。はじめに「書とは何か」「人生を決定した書家との出会い」などについて語ってくれた。その後は、会場にシートを敷いて存分に書いてもらった。

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 冒頭に、「書道ではなく、あえて書といいたい。私は書を大切にしている。また書を造形的に捉えている。」と書論を提示してくれた。さらに「墨の黒さ、紙の白さに、魅了されている。黒と白こそが、書の美である。」「書の作品に風韻が香ること、つまり品位と格調が宿る、そんな引き込まれる書を創造したい」と。また線と面の違いを力説し、面を重んじる墨象の仕事とはちがって、あくまで線そのもの意識していると語ってくれた。さらにこんな言説を披露した。「まず臨書が第一義だ。そこから創作という地平が生まれてくる。そして創作とは、その人から自ずと滲みでてくるもの、そんな根源的なものだ」と、書の奥義(基本)を示してくれた。

 

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最初の習いは、父からという。強く楷書の大切さを教わった。小3より、若き石川玉舟に師事。この頃は、基本技術(職人的な)の習得を目指したという。札幌北高(書道部に入部)から、北大法学部へ。在学中に一生を左右する出来事があった。東京・高円寺に住む、「日本一の書家」と敬愛する桑原翠邦(帯広出身)を尋ねた。無謀にも連絡なしのまま、近くから電話をして「お会いたい」と切り出した。桑原は、「すぐに来なさい」の声で迎えてくれた。手厚く処遇してくれ、端整な姿勢や言葉のはしはしから、書人としての崇高さに心うたれた。その後司法試験直前という状況下で、ちょうど札幌パークホテルに滞在していた桑原と出会った。それが運命を決定した。急遽、「人生の路」をチェンジした。中学校時は、「新聞記者」を、高校時には、「法律家」を目指していたが、そんな方向から離れむしろ茨のはえた、未知なる「書の道」を歩み始めた。岡田には、ひそかに私淑する師がいるという。この時は、山口子羊、石田栖湖、井上有一らの名を挙げていた。

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19歳で北海道書道展に入選し、さらに20代前半、最年少で北海道臨書会展の会員に推挙された。

多くの揮毫(北の誉酒造、大友亀太郎の碑文など)も手がけている。また市内で教場も開いている。今回は、生徒さんも多く参加してくれた。現在、北大遠友学舎で連続個展に挑んでいる。

30代はじめに、小川東洲と出会い、書の芸術性、前衛性にみちた自由な精神から感銘をうけた。稽古をみせてもらい、身体全体を使って書くことの大切を学び、なにより厳しく「芸術性を養え」といわれた。その後『北海書人』の編集主幹も勤め、現在も『書現』で、「漢字のはなし」を長く連載し、『美術ペン』には、北の書人について論考を展開している。

  

 さて後半は、参加者から書いてもらいたい字を頂戴しながら、筆を動かした。篆書体の「飲」からスターし、動きのある「遠」へ。はじめはまだ助走路を慣らしている感じだったが、次第に入魂の境地になってきた。脇でみていても、身体が軽くなって自在化しているのが、読み取れた。手で字を書いているのではなく、何か別なものに動かされて書いているとも感じた。だが終始、線を大切にしながら、腕を軸にして字を書こうとしていたのが読み取れた。最後に数人の参加者にも、筆をもって自由に書いてもらった。その時の表情がとてもよかった。

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 レクチャーの中で、岡田は最高の書には、「ぼくとつ」の良さ、つまり素朴な「拙の思想」が胚胎していると述べていた。画家熊谷守一の書にも、それが表出しているという。それは全ての芸術にもいえることかもしれない。では岡田の精神の骨格になっているものとは何だろうか。レクチャーを聴きながら、こう理解した。それは虚を排し、精神の純朴(つまりは拙の立場、あるいは無心の境地)に根ざした創造への意思ではないかとおもった。すでに書と50年にわたって付き合ってきた岡田。それでも決意を新たにして、「自分らしさ、人間性が滲んだ作品」を残したいという。とすれば芸術(書)の世界はあまりに深く、「芸術(書)の青春期」から卒業して、ようやく壮年期に向かっているのかもしれない。

(文責柴橋伴夫)

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「アートによる炭鉱の遺産/ドイツ・空知」

「アートによる炭鉱(やま)の遺産(きおく)/ドイツ・空知」    -開催日 2010128日(金)-

講師

吉岡 宏高(NPO炭鉱の記憶推進事業団)

1963年生まれ。三笠市幌内出身。NPO炭鉱の記憶推進事業団理事長。札幌国際大学観光学部教授。まちづくりコーディネーターとして道内各地の地域再生に取り組んでいる。

■会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

受講者35

「アートとしての

炭鉱

(

やま

)

の可能性を学んだ」

いま話題の人吉岡宏高を迎えた。NPO法人「炭鉱の記憶推進事業団」(2007年設立)を立ちあげ、各地で炭鉱(やま)の遺産(きおく)の大切さを啓蒙し、様々な計画を実行している。今回も函館から、直で会場に来てくれた。少し風邪気味というが、実に熱の入った講話であった。沢山のスライドをおりまぜながら、いま私たちが、北海道を築いた基幹産業であった炭鉱遺産といかに向かいあうべきか、その大切さを語ってくれた。

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三笠市幌内出身というから、幼い時から炭鉱遺産と共に生活をしてきたことになる。出生地の自然、歴史、風土、文化がみずからの「精神の骨格」となるとすれば、まさに吉岡は、炭鉱の再生の路を切り開く任務を託されていたことになる。炭鉱というと、どうしても「暗さ」が、先行してしまう。また廃れていくものを、ただ愛惜や郷愁の対象として眺めてしまうことがおおい。吉岡は、「炭鉱は暗くない」と何度も強調していた。ではどうすれば炭鉱は明るくなるのであろうか、その具体

的を示してくれた。

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先進的なドイツの取り組みを紹介してくれた。これまで調査も含めて、16回ほど現地に足を踏み入れているという。ドイツでは炭鉱は、「負の遺産」ではなく、むしろ地域再生の貴重な財産になっているという。

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ドイツでは、建築家も参与して1901年から「IBA」(Internationale Bauausstellungの略語 国際建設展覧会)が組織されている。かなり一般化している伝統的な「まちづくりの手法」という。都市の再生と建築との協働作業。それが各地で実践的に行われている。だから長い歴史があるようだ。映像で、幾つかのプロジェクトを紹介してくれた。少し紹介しておきたい。

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ベルリンの東にあるラオジッツ地域での露天掘りの施設を活用した「光と音のインスタレーション」や、デュッセルドルフの北、ドイツ重工業の中心であったルール地方の再生を目指したプロジェクト「エムシャー・パーク」など、どれ1つとってもスケールが大きく、活気に満ちていた。特にエムシャー・パークは、高炉をそのまま残しながら、製鉄所全体を公園にするというもの。

1960年代には、川に汚水がたれ流しされ、大きな汚染があったという。いま土や水環境との調和を目指して

計画が進行しているという。ドイツでは、現代美術家も参加していた。梱包の美術家クリストは、ガゾメーター内部での壮大なドラムカンを集積した壁を制作した。鉄の彫刻家リチャード・セラの作品もあった。たしかに暗くない、むしろ炭鉱遺産を積極的に活用し、むしろ起爆剤にして「地域おこし」をしていると感じた。

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 私は、これは哲学の違いが影響しているかとも想った。欧米では、どんなに古い建物であっても、それは「壊すもの」でなく、まず「保存」すべきものと考える。建物も、人格といのちを具有した「生きた人間」と同じとみている。また日本では、国も地方もさらにいえば企業も、産業遺産への「敬愛の念」が低すぎる。

 吉岡は、空知の炭鉱遺産を財産にして、イギリスやドイツの炭鉱都市とも交流している。また幾つかの再生計画を実施している。2001年からは、港町小樽と国内有数の良質炭を産出した幌内と結んだ列車の線路に、灯かりを灯すワークショツプを実施している。2005年には、自治体首長にも参加してもらって、どう遺産を生かして地域を元気にするかを論議した、「炭鉱遺産サミット」の開催など。また学生や市民が参加したアートプロジェクトも動いている。2009年「幌内布引アートプロジェクト 炭鉱(やま)の遺産(きおく)を掘り起こす」がそれ。このアートプロジェクトには、「サラ」メンバーの上遠野敏が声をかけて、札幌市立大学の学生も係っていた。それに係ったメンバーも、今回参加してくれていた。

吉岡は、炭鉱の遺産に、まず自分の身体を置いてほしいといっていた。さらに壮大なプランがあるという。空知を元気にすること。さらに北海道全体を元気にすることを考えているという。そのために14の拠点を設定し、市民ネットワークを築きたいという。そのベースとなるのが、炭鉱遺産であり、それを媒酌(仲介)にして、人と人、歴史と文化、過疎と都市をつなぐ回廊を築きたいという。そうすれば、炭鉱の遺産を掘り起こすことが、「炭鉱の記憶」を掘り起こし、それが自分の「街の記憶」にも関心を抱くことになるはずである。

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 私が印象に残った言葉がある。吉岡は、まずみんなに「好奇心のブースター」を作動してほしいという。この「好奇心のブースター」という言葉。なかなかいい言葉ではないか。「好奇心のブースター」が何かを動かすパワーとなり、それが集積すればとても大きな力となるはずである。(柴橋)

2011年10月10日 (月)

「川上りえによる川上りえ」

「川上りえによる川上りえ」          -開催日 2011826日(金)-

講師

川上 りえ(彫刻家)

千葉県出身。東京藝術大学大学院修了。1990年より北海道に在住。個展、グループ展を通じて金属彫刻、インスタレーション、インタラクティブ・ワークス、サイトスペシフィック・アートを制作発表。02年〜08年にかけて、アメリカや韓国でのアーティスト・イン・レジデンス・プログラムに参加、展覧会出品。現在は石狩のスタジオにて、作品を制作し、札幌を中心に活動。作品と対峙することで得る感覚が深層意識に語りかける作品を生み出したいと考える。

■会場 ト・オン・カフェ  

■受講者40

凛とした個性を感じたレクチャー

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冒頭の映像が刺激的だった。幼い頃の川上りえの写真だった。最初の話は、生まれた千葉時代のこと。美術家川上りえになる前の素顔を知ることができた。このレクチャーを聴きながら、アートの発火点となるものは、人により差異はあると思うが、川上にとっては、小さい時から手を動かし、また絵を描いていたことが大きな原動力となっていたようだ。高校生になって、もどうしてもアートを勉強したいと、浪人しながら多摩美術大学への合格を勝ち取った。そこで真鍮やアルミニュムなどの素材を使う金属造形と出会った。

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「当時はダリが大好きだった。」という。これは意外なことだった。「ダリの世界観や、絵の中にある別次元の風景に関心を抱いた」という。これまた意外だったのが、大学時代は、バイクを乗り回していたという。風を切って疾走する姿。ぜひともその写真も見たかった。その後、東京藝大の大学院へ進み、鍛金科に籍を置いた。錆の力やたたいて変化する形に興味を抱いた。ハードな作業だったが、「自己表現の言語」となると確信した。当時の作品は、パーツを繋ぎつつ、「呼吸する形」や「プリミティブなもの」、さらに「ほったりしたもの」を感じさせるものに挑んだ。

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川上は、大学院を卒業後、北海道にきた。現在は、石狩市に在住する。大学などで学生に教えながら、多くの展覧会にも参加している。今回はあまり紹介していなかったが、札幌市豊明高等養護学校 (札幌)や石狩市総合保険福祉センター「リンクル」(石狩)など、多くのコミッション・ワークを制作している。新しい造形、自分らしい空間探求の熱を燃やして、積極的にアートの武者修行をした。海外体験も重ねた。それは中学生の時に、父の仕事の関係により、アメリカで生活をしたことも影響しているようだ。現地の学校に通学し、「言葉の壁」を感じながら、会話することの難しさを実感したという。こうした困難な体験も、あとで大きな力となったようだ。というのも今度は、アート作品が言語の壁を越えて、会話する貴重な手段となることを学んだからだ。これまで川上は、数度にわたって文化庁への申請やフリーマン基金(アメリカ)などを有効に使って、アメリカ(ヴァーモントスタジオ・センターやNY・ロケーションONE)などで制作をした。多国籍の人達と出会い、作品を通じて、交流ゾーンが拡大した。今回のレクチャーでは、その生活や制作システムなどが重点的に映像で紹介してくれた。ここで私が強く関心を抱いたのが、アメリカでは、かなり著名な美術家なども、アート・イン・レジデンスなどの制度を活用し、制作していること、さらにそこで制作しているメンバー達の作品批評をしてくれるという事実だった。上下関係のない自由なその雰囲気が、とてもいいと感じた。もう1つ感じたことは、川上は異国での作品制作により自己内省を深め、さらに自らの自己同一性とは何かを突きつけられるとてもいい機会となったのではないかと思ったことだ。それは私なりの言葉でいえば、アートにおける普遍性と個別性の関係をじっくりと突き詰めることになったはずだ。さらに海外体験を重ねる中で、いつしか無意識のうちに、「日本人としての色や形」とは何かを意識するようになったはずだ。

さて川上りえの制作とはどんなものであろうか。鉄などのハードな素材を扱いながら、ガス溶接、曲げ、磨きなどという力作業が中心となる。そんな厳しい作業の中でも、人や素材との出会い、さらに作品展示する空間などを大切にしながら、常に自分らしい造形に挑んでいる。その背筋をピンと伸ばしていく生き方、しなやかで凛としている。そんな作品づくりに感銘を受けた参加者から、こんなコメントが寄せられていた。「しっかりと、自分のことをみつめている人だ。」「女性としてもとても、元気をもらった。」

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最後に、少し個人的な感慨を提示しておきたい。これまでもしなやかな線や形で、大地を基底にしながら、自立する彫刻や人形(ひとかた)や、2010年の茶廊法邑での個展「イロジカル・ムーブメント」では、生命のエネルギーに繋がる螺旋形を表象化した。さらに人間の意識をこえた大きな時間の流れや、「呼吸する空間」を構築してきた。近年は、特に双方向のアートを志向しているように思える。

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すでに2004年には、ヴァーモントスタジオ・センター内のレッドミルギャラリーで、面白い試行した。隣の部屋(ワインとデザートが用意されている)にいくためには、作品を潜り、触らないと辿り着けないという趣向にした。そのため他者により「変形」「消失」していく作品となった。また映像でも紹介していたが、2010年に札幌彫刻美術館で開催された「Plus1 This place」では、一室に細い針金をはりめぐらして、海のような空間を開示していた。鑑賞者が作品の中に、身体で感応する空間を仕組んでいた。

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これからも手の痕跡を生々しくみせながら、感覚を刺激させる生命的な線と空間をみせてほしい。それが視る者の「隠れた感覚」を蘇生させる。そんな新鮮な空間造形をさらに開示してくれることを願っている。

(文責・柴橋)

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