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2011年7月

2011年7月 4日 (月)

「岡本太郎の肖像」  

「岡本太郎の肖像」          

開催日 2011年6月24日

(金)-

■ 講師

柴橋 伴夫(美術評論家)

1947年岩内生まれ。詩人・美術評論家。砂澤ビッキや難波田龍起を評伝スタイルで論じ、『聖なるルネサンス

安田侃』『夢みる少年イサム・ノグチ』などを著している。本年中に評伝「太陽を掴んだ男-岡本太郎」を刊行

予定  現在、荒井記念美術館理事、北海道文学館評議員、「美術ペン」編集長など。

■会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

■受講者50名 


-「岡本太郎の実像とその背景にあるもの」-

司会の玉本猛(副代表)さんからの岡本太郎の人と作品について説明されたあと、“実は大嫌いな岡本太郎”という発言からレクチャーはスタートした。1970年の大阪万国博覧会に反対の立場であった柴橋さんは、早く万博は終ればいいと当時思っていたという。 岡本の評伝を書くきっかけは、十数年前日本の戦後抽象表現芸術の代表的作家である難波田龍起(旭川生まれ)の評伝を執筆中のことだった。朝日新聞の小さなコラムにこんな一文が載っていた。「戦後の美術の中で難波田龍起が月であるならば、岡本太郎は太陽である」と。かたちと色の純粋な追求を目指した難波田龍起に対して岡本太郎はその対極に位置付けることが出来る。この対極の関係性が岡本太郎の評伝執筆のきっかけの一つとなった。難波田龍起の当時の資料を求めて岡本敏子さん(岡本太郎の秘書であり、養女。実質的なパートナー的存在でもあった)にお会いした。万博後のテレビ出演、CMでの過激発言「芸術は爆発だ」など太郎の行動には彼女が関与していたようだ。イサムノグチの評伝では「地球を彫刻した男」、今回岡本太郎の評伝には「太陽を掴んだ男」(7月上旬刊行予定)と題した。

1.「異形の家」-魂の形成力その前衛性はいかに-

岡本太郎は父:岡本一平と母:かの子との間に長男として生まれた。岡本一平は政治漫画家(ジャーナリスト)として一世を風靡した時の人であった。その後、小説家を志した。(遺作、小説構想「一休迷悟」) 岡本かの子は川崎市高津の生まれで豪商・大地主(大貫家)の長女であった。兄、大貫晶川は谷崎潤一郎と親交のあった文学者であり、家の伝統と文学の気質のなかで育まれ歌人、小説家として活動した。彼女の特筆すべき点は「全ては芸術のために」の言葉に集約される。社会常識では図ることの出来ない“情念と愛に奔る女性であった。 その代表的なことがらの1つは愛人との激しい愛や同居生活であった。一人目は早稲田大学生の堀切茂雄である。堀切との関係は小説「血」に描かれている。L(かの子)とLの夫(一平)という記号化された表現でその愛を描いた。愛の終焉に手渡された二人の子供の位牌に結核で吐血した血がかかる、という悲劇的な内容である。かの子はまた才能ある歌人(与謝野晶子を訪ね、明星で短歌を発表)でもあり、「たそがれの風に吹かれて来し人のうすら冷たき頬をくちづけぬ」という歌を詠んだ。相手は堀切茂雄である。次に慶応病院の外科医、新田亀三の存在である。病院で知り合った後、3人の奇妙な同居生活が始まりヨーロッパ旅行も同伴し、かの子が亡くなった際の葬儀も共に行った。「異形の家」でありながら彼らは純粋に生きていたのではないか、と柴橋さんは批評する。そんな家庭環境の中で太郎は生まれた。太郎は小学1年(慶応幼稚舎)にして寄宿舎生活を強いられた。太郎は慶応の普通部から自らの特訓を経て東京芸大に一発合格するも父一平の仕事の都合(ロンドン軍縮会議の取材派遣)に同伴し、1年の12月に渡欧することになる。 

 ここで話は父、一平の晩年へと変わる。かの子の死に際し、多磨霊園に手に入れられるだけの沢山の赤いバラの中に彼女を埋葬(土葬)した。その後、疎開先の岐阜で八重子という一般女性と再婚し、4人の子供を設ける。この子供達を太郎が東京に呼び寄せ、成人するまで面倒をみたという。太郎のヒューマンな側面を垣間見る出来事である。 一平の死に際しては、その厳しい精神生活を顧みて出棺時“凱旋”と称した。立派な仕事を成し遂げた父に対して「岡本一平万歳」を三唱した。(※写真は岡本一平の墓)

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. 知の巨人-パリ大学ソルボンヌ校

岡本太郎の著書『今日の芸術』では3つのテーゼを掲げている。「うまくあってはいけない。」「きれいであってはいけない。」「ここちよくあってはいけない。」と真逆な方向付けをした。また「人間とは全てを行わなければならない。特化した専門家であってはならない。自分は全人間的である」と唱えた。このような独自の彼の思想はパリ大学ソルボンヌ校での学生時代に養われたのである。アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル哲学を学び、自ら「対極主義」を打ち立てる。

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また文化人類学者(民族学)マルセル・モースの薫陶を受け、ヨーロッパ文明とは異なる先住民族やオセアニアの文化に興味を示していく。シュルレアリストのアンドレ・ブルトンは岡本の絵画を高く評価したが、彼の書斎にオセアニアの仮面などが収集されていたのも興味深い。のちに縄文(火焔式土器の芸術性)や沖縄(イザイホー、久高島の「うたぎ」など)のプリミティブな事象を再評価していくこととなる。写真はブルトンが最も評価した作品「痛ましき腕」である。1937年パリのG.L.Mから出た画集の中で太郎はこう述べている。「芸術は現実を告発し、否定し、それを超えた世界を表出するのだ。しかしあの時代のわたしは美しい情感にみちたヨーロッパ生活の環境、つくりあげられた現実を甘んじて受けるしかなかった。異様に苦しかった時代である。絶望と非力感、追い込まれた自分を画面に凝固させた。わたしは青春のリリシズムと甘美な苦悩を空間にひるがえるリボンの形でひらめかせた。」 具象と抽象の表現の狭間で悩む太郎の心情がうかがえる。

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また当時 ジョルジュ・バタイユの思想に傾倒し「コントル・アタック」(反撃)反ファシズム運動に参加した。  ここで1975年に制作された伝記短編映画「マルセル・モースの肖像」の中でジャン・ルーシュが岡本太郎にインタビューした際のコメントが紹介された。太陽の塔に関しての質問に対して「日本の伝統にない新しいもの、ヨーロッパにないもの、日本の美ではないものを作りたかった。作るということは繰り返さないことです。」子供を作らない理由を問われ、「子供は創造物ではない。創造とは簡単な生産を否定することである。私は困難な創造しか求めません。自分は絶対的な父でなければならない。宇宙となるのです。私は自分の父であり自分の子供でもあるのです。(抜粋)」と答えている。        

日本へ帰国後,3年の徴兵と俘虜生活を経て戦後フランスで再デビュー。 ここからは映像での作品紹介が主となる。(50年代の空間のうねった作風を柴橋さんはバロック的絵画と呼んだ)主なものを列記する。「夜」(1947年)「森の掟」(1950年) 書字的作品「黒い生き物」(1961年) 「遊び字」シリーズ<> (1975年) 次に多岐にわたる周辺の仕事として 「キリンシーグラムの顔のグラス」「名古屋久国寺の梵鐘」「建築・マミ会館」「座ることを拒否する椅子」映画「宇宙人東京に現る」の宇宙人キャラクター etc .

.岡本太郎の現代性 未来性 いまなぜ太郎か

ひとつは芸術概念のひっくりかえし。安住する意識への攻撃。(「今日の芸術」でのテーゼ)

「芸術は爆発だ」とは単なる自爆ではなく、高い精神性の保持が必要なのだ、と読み解く。 《明日への神話》は核時代の悲劇、第5福竜丸の被爆事件に基づいた図像である。そして《太陽の塔》のある大阪万博は人間を主題にした初めての第1回万博だと発言している。 そして戦争体験から《第4番目主義》反暴力思想・平和主義を唱える。 全人間的に生きるという《前衛主義》を貫いた。 太陽の塔に関しては、民俗学的要素の集大成を内部展示に込めた話と万博時のエピソードが紹介され、太郎の死に際しては、葬儀は行われず後日、誕生日であった2月26日に草月会館で「語る会」が催されたことなどが説明された。最後に太郎の詩が紹介されて、柴橋さんのレクチャーは終了した。

★キリンの首 天まで届け お日さんの顔を四角にしろ  ★赤い兎を上げましょう

いまなぜ岡本太郎が再評価されているのか?そこには揺るがぬ岡本流哲学の実践が日本の高度成長へのアンチテーゼとして、現在の日本の抱える様々な問題にその解決への精神的道筋を説いているのではないだろうか?また忘れてしまった昭和の反骨精神への郷愁かもしれない。      

 (文責 澁谷俊彦)

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