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2011年6月

2011年6月22日 (水)

「私の見た国外の美術状況」

「私の見た国外の美術状況」 

-開催日 2011527日(金)-

講師

鈴木 吾郎(彫刻家)

1939年芦別生まれ。北海道学芸大学特設美術科卒業。近年は精力的に海外で作品を発表。03年には、ベルギー「リンクアート・ゲント展」、04年には、フランス・コルマール「日本創造の世界:土と炎展」、05年には、パリでテラコッタ新作展、08年には中国鄭州市で個展を開催した。現在まで個展31回。モニュメント57基を設置している。

■会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

■受講者35

海外での「挑戦者」鈴木吾郎

小樽在住の彫刻家鈴木吾郎に登場してもらった。1939年芦別生まれの鈴木吾郎は道立札幌西高校から北海道学芸大学(現・北海道教育大)札幌分校特設美術科に進み、藤川叢三に師事、主として人体像の彫塑作品を制作し続け、これまで全道各地に50基を超えるモニュマンを制作しています。

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はじめに映像でトラブルがあり、みんなに迷惑をかけてしまった。それでも、鈴木の熱弁にみんなが引きこまれていった。最後に気づいたら、予定時間をはるかにこえて、120分ほどのレクチャーとなっていた。会場には、鈴木のかつての学友も駆けつけて、会場全体に和やかさを醸し出してくれた。

はじめに、鈴木が師と仰ぐ具象彫刻の大御所佐藤忠良さん(札幌二中出身で、鈴木の大先輩でもある)の話をしてくれた。鈴木は、これまで幾度となく、佐藤忠良のアトリエを訪問しまた鈴木の個展会場(東京銀座)にもよく足を運んでくれたという。

今回は特別に、佐藤忠良さんから送っていただいた絵葉書をみせてくれた。ある時は近況報告を、またある時は励ましの言葉を記してくれた。いつも文に絵を添えてくれた。その中でとても心に残った言葉があるという。「最近になって随分仕事がダラダラしていたのが分かり、しばらく落ち込み、この頃3ヶ月ばかり写生に徹した裸をやっているところです。」写生(具象)の神髄に触れた、なんと激しい自戒の言葉であろうか。

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さて鈴木は、近年精力的に海外で個展を開いている。その契機となったのが、3回目の銀座での個展だった。そのギャラリーが「個展をひらきませんか」と、ベルギーのゲント市で開催されていた「アート・エキスポ・ゲント展(2003年12月)に誘ってくれた。そこから、さらに輪が広がっていった。鈴木の作品に興味を抱いた美術関係者(画廊)などが、さらに声をかけてくれた。翌年の2004年には、コルマールで「日本・創造の美:土と炎展」(「日本学研究所主催」に出品した。そこでは「アニマッション」(日本でいうワーク・ショップ)を行い、大いに人気を集めたという。

海外で個展をする。それは美術家にとっては、一生の夢かもしれない。いざそれを体験してみると、システムが日本とはかなり違うことがあることに、気づかされるようだ。こんなこともあったという。フランスでは展示を専門家が取り仕切り、作家は全く口を挟めなかった。

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また公設施設であっても作品販売はOKだった。さらに欧州では、民族(宗教)間の対立が重い影を落とし、単純に人道的な想いだけで行動してはいけないことも知らされたという。というのも、鈴木は、現地で「アフガン教育支援」を申し出たが、「いま、ここでは、それはやめてください」と断られたという。2005年には、パリで、「鈴木吾郎テラコッタ展」(エスバス・ベルタン・ポアレ)を開催した。パリのオープニングは、挨拶も紹介も無く、ワインを飲みながらそれぞれが歓談しているだけという。それで入場者は積極的に話しかけて、質問を投げかけてくれた。最後には、たくさんのメッセージを書いてくれた。

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それを

画像でみせてくれたが、彫刻から受けた感慨を素直にかつ的確に表現してくれていた。どうだろうか、日本では、なかなかこうはならないのではないだろうか。最後は、2008年に中国鄭州

市で、「鈴木吾郎彫塑展」(鄭州市美術館) を開いた。ここは、中国中央部河南省(1億3千万人)の首都で、洛陽と少林寺が東西にありBC3000年ころから栄えた黄河文明発祥流域にある都でもある。それは第10回アジア芸術祭・展覧会部門として、開催してくれた。ここでも中国式のやり方に振り回されたという。肝心の作品が届かない。予定通りに会場設定が進まない。でも最後は深夜にわたって人海戦術で開会に間に合わせてくれた。これも中国式の展覧会システムのようだ。一番びっくりしたのが、盛大な開幕式の挨拶に、「尊敬する…」と、偉い方々への感謝の弁をいれてくれといわれたとき…。私も聞いていて、国によってこんなにも違うものかと、改めて気づかされた。開催時期は、ちょうど国慶節(祝日)とぶつかり、沢山の来場者があった。実は鈴木は、自分の具象作品はサイズも小さく、社会主義リアリズムの影響が長かった中国でどんな風にみられるか、とても気にしていたという。結果的には、大成功で、とても興味深くみてくれて、彫刻を楽しんでくれたという。特に子供達を対象に(ワーク・ショップ)を実施し、とても優れた感性をみせてくれたという。ふと私は、ひょっとして、将来中国を代表する彫刻家が、そこから生まれるかもしれないとも、思った。

今回、レクチャーを聞きながら、私はこんなことを考えていた。それは、はやりアートには、国境は存在しないということ。鈴木の作品世界が、言葉も髪の色も違う、外国人に受けいれられた。鈴木自身も、海外で展覧会を連続して開催できるとは、当初は予想していなかったことかもしれない。でもそれが現実となった。それはどうして可能となったのか、考えてみた。理由はいくつかあるかもしれないが、1つの結論をいうならば、鈴木の作品が、国際的なレベルを保持し、普遍的な価値をもっていたということではないだろうか。展示した多くの作品は、素焼きのテラコッタだった。いうまでもなく、どこの国にもテラコッタがある。古くは、イタリアのエトルリア美術や中国の兵馬俑など。むろん日本の縄文や土偶もある。こんな風に人類は、古くから土と出会い、火を使って道具や日常品、さらに美術品などを作っていた。土の匂いがする、身近なテラコッタがまちがいなく境界を消していったのではないだろうか。さらにいえば、これが一番根元的なことかもしれないが、鈴木が造形する女性像などが、とても「現代的なメッセージ」を放っているためであろう。実際に「泣く女」や「トルソー 風髪」は、すごく人気があったという。

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国際化の時代が来たといわれて久しいが、いざ美術家達が、欧米で作品を発表し、その作品が評価され、売買までいくというのは、そう簡単ではない。

まして現代美術が主流となる現況の中で、具象彫刻が評価されるのは、難しいことになっている。国際化となると、まず作品が普遍的価値を保持していなければならないし、いうまでもなくそれと同時にオリジナルな形象美や日本的美意識も宿していなければならない。鈴木の作品は、厳しい長い創作活動の営みの中で、それを体現していたわけだ。

鈴木の「挑戦」は、とても意義あることと思った。さらに多くの若いメンバーが、その後を継いでいってほしいものだ。(文責・柴橋伴夫)

「北の空気と建築」 

「北の空気と建築」               

-開催日 2011429日(金)-

講師

平尾 稔幸(建築家)

1953年比布町蘭留生まれ。北海道大学卒業。1989年平尾稔幸建築事務所設立。北方型住宅賞(北海道主催コンペ)・丘の上のリニア・ハウス(建築学会北海道奨励賞)・後志家畜保健衛生所(プロポーザル最優秀)・サイレント・キャビン(建築家協会住宅部会ハルニレ賞)・ミルチ(札幌市都市景観賞)・国希酒造建築群(北海道赤レンガ建築賞)・日本建築家協会登録建築。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

受講者20

自然体から生まれた建築

サラは、2011年度のスタートを切った。通算では、第12回となる今回は、札幌市内に建築事務所「時逍館」を設立して、多くの話題の建築作品を道内中心につくりだしている建築家平尾稔幸(としゆき)を迎えた。タイトルは、「北の空気と建築」だった。

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このレクチャーでは、建築学会北海道奨励賞をうけた「丘の上のリニア・ハウス」や、札幌市都市景観賞をうけたアトリエの近くにあるカレー専門店「ミルチ」などを、スライドで紹介してくれたが、それを見ていると、改めて自然空間との繋がりを大切にしながら、素材を選び、空間づくりをしていると感じた。特に札幌市南区の最南に立つ「丘の上のリニア・ハウス」は、高床式の出窓を多く使用し、丘の上から奥手稲への眺望を満喫できていた。

また北海道における雪の問題を意識しながら、かなり傾斜のきつい三角屋根を多用していることからもわかるように、厳しい自然環境と対峙するのではなく、むしろそれを受け入れながら人が住むことを常に考えているようだ。この姿勢、つまり自然との対峙ではなく、自然となかよく付き合う、つまり私がいうところの、親和を重んじる姿勢は、北方型の住居を考えるうえで、これからもおおきな示唆(意味)を与えてくれるようだ。具体的には、「メイゲツカエデの家」「三角屋根に出窓がくっついた傾斜地の家」などから、それを伺い知ることができた。

 私だけでなくレクチャーを受けた参加者も、一番興味をもったのが、「サイレント・キャビン」だった。日本建築家協会北海道支部住宅部会「ハルニレ賞」を受けた作品だ。この家は、平尾の個人住宅。場所は、当別町の中小屋温泉の近くという。スライドをみても、かなり辺鄙な場所というのがわかる。こんな空間だ。「幅1間長さ12間の細長い平面で、1階は雨の日のテラスと玄関とクローゼット、2階は廊下のようなキャビン(生活空間)とブースターとしての寝室が横に張り出している。」まさに自然のただ中に置かれた、まさにキャビンの感じだ。たしかに夏などは涼しく生活しやすいが、冬はどうするのかとこっちは心配するほどだった。が、平尾は平然としていた。彼は、比布町蘭留の生まれというから、むしろ喧騒な都会を離れて故郷の風景に戻ったというべきかもしれない。聞くと、ここには風呂がついていないという。温泉まで行くという。

平尾自身は、別なところで、この空間について、こんなことを言っている。「英国の運河をゆくナローボートのような『旅する船』の感覚を求めてみました」と。こののんびりした、悠然とした自然体の生き様。それを貫く姿勢は、なかなかなものだ。(文責・柴橋伴夫)

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私は何度か、円山の閑静な住宅街に建つ「時逍館」(中央区南5条西21丁目1-5)を訪ねている。この「時逍館」の名称は、平尾稔幸自身がつけたものという。この名称には、とても強く平尾稔幸自身の想念、それは大きな見方をすれば哲学といってもいい、生き方の根底に関わるものが色濃く反映しているようだ。

平尾は、築80年をこえる古い民家(札幌でもかなり古い、記念碑的な住宅)をアトリエと住まいにしている。ここにもう20年以上住んでいるという。こっちからみれば生活するには、かなり不便ではないかと思うのだが、平尾自身はその不便さをほとんど苦にすることはない。それどころか、老熟たる風格を示している家を、老いた肉親のようにして大切にしながら生活しているようにもみえる。さらにいえば、その平尾の姿からは、その家をなによりも愛しているといった方がぴったりとす

るかもしれない。今回のレクチャーの中でも、すぐに廃れるものではなく、千年間を生きる建築こそが、本当の建築といえるといっていたが、たしかに人間の英知は、自然のシステムと比較するならば、たいしたことはないのかもしてない。築80年の建築空間により添うことで、人間にとって建築とは何かを考えるいい機会となっているのかもしれない。

いま少し「時逍館」にこだわって、平尾の生活心情に少し触れてきたが、実は彼の建築には、この「時に遊ぶ」という独自な時間感覚が脈打っているようだ。「光陰矢の如し」というが、時間が過ぎていくのは、とても早いものだ。その矢の如く過ぎ去る時間に抗うことなく、肩の力を抜いて、日々生きていくこと。だからこの「時」に「逍遥」する生き方は、言葉でいえば簡単ではあるが、いざそれをしっかりと実行するとなると急に難しいことになるのはいうまでもない。そんなことをいろいろと思索しながら、北の風土に相応しい空間を築いている建築家が北海道にいることは、とても意味あることだと、私は考えている。私が彼にレクチャーをお願いしたのも、そんな理由からであった。

さて視点を少し変えてみると、いうまでもなく自然世界は、いまさらエコロジーといわなくても、人間の思惑とは関係なく、過去から現在まで、一貫して自立し超越した存在であった。人間だけが、便利さ、快適さ、効率さ、安全性をより重要視して、空間を構築しある場合は、独善性に走り、自然さえ破壊してきた。どちらかといえば、家づくりにおいても、同じことが起こっていた。つまり自然そのものや他者から、自分の居住空間を保護し、防備する城的機能を帯びてきた。

どうも平尾は、そんな狭い人間中心の視座から、さらにいえば人間の欲望や功利から、可能な限り自由になろうとしているようだ。むろんクライアントの要望もいれなくてなはならない。でも自分の建築に関する主義(主張)をあまりに譲ってしまと、個性のない空間に堕してしまう。平尾は、それを踏まえながら、できるだけいつもしなやかに対応し、自然との親和関係を保つことを目指しているようだ。

彼の建築の根底には、そんな自由で独自な生き方や自然観に根ざした見方があるようだ。それが平尾建築の最大の魅力といえるかもしれない。

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