2018年1月26日 (金)

第80回 2017年11月24日(金)

講 師: 我妻緑巣(書家)

1934年室蘭生まれ。渡辺緑邦に師事。これまで北海道書道展、日展、毎日書道展、創玄展を主舞台として作品を発表。近年は「我妻緑巣」展(94,99,2004,2014年)を開き、「老子」などに挑んでいる。『北海道の「書」20人の世界』道立近代美術館、91年、「北海道の書」展道立近代美術館03年に出品。北海道書道連盟理事長03年、札幌芸術賞05年受賞。2015年には「ふるさと夕張」展(夕張市清水沢地区公民館)を開催し話題を集めた。

書芸術への熱い想い
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第80回レクチャーは、書家我妻緑巣(札幌在住)にお願いした。我妻は、北の地に根をはり、近代詩文書の世界において、金子鷗亭、中野北溟らに続いて、独自なフィールドを切り拓いている。北の書人の第一人者だ。レクチャーをお願いした時、「文房四宝のことを話したい」といわれていた。自分にとり、<何をかくか><どうかくか>も大事だが、墨、筆、硯、紙がいかに<至高な存在>であるか、それが「書のいのち、作品の格」を決めるものであるか、力をいれて語ってくれた。我妻は、そのことを示すために、レクチャーの壁に、「文房四宝」の書字を掲げてくれた。
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またかなり高価な、墨、筆、硯などを、各自が手にとってみるように配慮してくれた。そしてこう言い放った。「いいものを使え」と。この言葉を聞きながら、こう感じた。書業を極めるためには、財を惜しまず、いい道具と出会えと。芸術と道具。道具は手段に過ぎないとみる人もい。しかし特の書芸術においては、生命を賭けた仕事を支える重要なパートナー、いやそれ以上の、創造力と生命力の源なのなのである。「いいものを使え」、短いが長年にわたり「書」を追究してきた書家らしい含蓄ある言葉だった。また我妻は、二〇一〇年に西安の地を訪れているが、その実体験から、中国の碑文、その本物(オリジナル)を自分の足と眼で確かめることの重要性に言及した。

少し、分からないことがあったので、にわか勉強をした。筆の始まりは、一般的には秦の始皇帝(約2300年前)の時代に遡及するという。秦の時代に、蒙恬(もうてん)なる将軍が、枯木を管(じく)とし、鹿毛を柱(しん)に、羊毛を被(おおい)として作った。その筆を始皇帝に献上したのがはじまりという。一方日本における最古の筆は、奈良正倉院に所蔵されている「天平筆」「雀頭筆」という。硯もまた長い歴史を刻んでいる。我妻は、「端渓(たんけい)」の硯(すずり)は最高という。しかし「文房四宝」の質も、政治社会の変動に左右されているという。中国では文革以後、質の悪い藁を使うことで紙の質が随分低下してきているという。
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今回のレクチャーで、私は、我妻の境涯に少し触れることができた。我妻の書は、早くに両親を亡くしてこともあり、いかに「立身」するかということと、深く絡んでいたようだ。室蘭に生まれたが、両親の死去により、縁戚の世話になり夕張へ。その後札幌に出て、生涯の師となる渡辺緑邦に師事した。師からは3回破門されたというが、師から「緑」を頂き「緑巣」とした。こうして我妻にとって書は、生きることと不可分な関係を結んだ。だからであろうか。我妻は、宮澤賢治の詩を好んで題材にしている。代表作「雨ニモマケズ」や「ふきの花でいっぱいだ」において、筆にいまここに自分が生きていることの感慨(喜び)をのせている。まさに書世界の中で、自分探しを行い、書が彼を支えたといえる。それだけではない。オリジナルな書法確立を目指して研鑽を積んでいる。そしてなによりも、1つ1つの筆触に現代的感覚を漲らせ、紙背に鮮烈な美を宿らすこと目指している。 
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話の後半では、主として80歳を迎えて「老子」に挑んだ展覧会の作品をラッシュでみせてくれたが、現代語訳を素材にしながら、新しい自分探しをしているのが分かった。特に「一」の力作には、闇を切り裂く生命力が漲っていた。まさに墨、筆、紙、硯の力を借りながら、古い自分を脱ぎ捨てていく、求心的な意志力を熱く感受した。

最後にみせてくれた映像が楽しかった。席をうめた我妻さんの「生徒さん」も、大感激だった。映しだされたのは、若き日の我妻さん。一斉に「若い!」の声があがった。書友(仲間)が我妻宅へ集まり、壁に貼った紙(?)に交互に書を書いていた。女性達は、背中に子供をおんぶして、喜々として筆を動かしていた。こんな風に競いあいながら書に熱をあげる姿。とても微笑ましく、そして素晴らしいと感じた。映像の中の我妻の顔。柔和な表情はいまと同じであった。
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 人生という回路では、我妻は老成の峠をこえた。しかし芸術には、永遠に終わりはない。さらに大きな峠をこえて、新天地を切り拓いてほしいものだ。

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(文責・柴橋)

第79回 2017年10月27日(金)

講 師: 小杉恵(ピアニスト)

岩内町生まれ。北海道教育大学札幌校芸術文化課程音楽コース卒業。1995年札幌市民芸術祭新人音楽界に出演し、札幌市民芸術祭大賞を受賞。ハイメスコンクール第二位受賞後、ハンガリー国立リスト音楽院にて研鑽を積む。帰国後は、国内外でソロや室内楽など、多くのコンサートに出演。ピアノを故若林千恵子、高島真知子、薄井豊美、谷本聡子、故K.ゼンプレーニ各氏に、室内楽をJ.デーヴィッチ氏に師事。現在札幌大谷大学、札幌藤女子大学、札幌国際大学にて非常勤講師を務める。日本ショパン協会北海道支部、ハイメスアーティスト、札幌音楽家協議会、「Zongoraの会」「2000番の会」各会員。

リストの多面性を知った一夜

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第79回レクチャーは、ピアニストの小杉恵にお願いした。小杉は、ハンガリーのリスト音楽院に留学し、研鑽を積んだことがあり、演奏会でもリストの曲を取り上げている。そんな経験を生かして、「ピアノの魔術師」と呼ばれたリストの「人となり」と音楽性の魅力を存分に語ってくれた。日本人には、リスト音楽を愛する人が多いが、その実像について詳しく知ることが少ない中、とてもいい機会となった。

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リストは神童といわれ、9歳で演奏を開いたという。その才能が評価され、かなり多額な奨学金の給付をうけ音楽の都ウィーンへいく。そこでツェル二ーに師事している。

小杉は、リストには、「4つの顔」があるという。作曲家、演奏家、教育者、聖職者。特に演奏者としては、世にいわれるように超絶技巧を駆使した演奏は、「ピアノのパガニーニ」とまでいわれるほどだ。技巧を支えたのが大きな手であった。小杉は、手の大きなピアニスト達をランク付けしながら紹介してくれたが、上位に位置する。「指が5本ついている手が二つあると思うな。身体から10本の指が生えていると思え」といったという。
リストの手(石膏複製)をみんなにみせてくれたが、自分の手と重ねてみても、たしかにおおきかった。
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手の技巧を駆使した演奏は、特にパリの社交界で人気をうけ、気絶する女性も出たほどだという。それが戯画化されている。
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私は話を聞いていて、新しいリスト像を得ることができた。それは教育者としての存在の大きさだった。父の死により、生活のためピアノ教師として活動した。その場は、パリ、ジュネーブ、ワイマール、ブタペスト、ローマと広範囲だ。生徒は、有名無名を問わず、1000人を超えるという。その第一人者が、ハンス・フォン・ビューローである。同時代人の音楽家には、ベルリオーズ、パガニーニ、メンデルスゾーン、ショパン、シューマンらがいる。リストは、彼らから音楽的にも大いに影響を受け、また彼等の曲をピアノ用に編曲し今日に伝えている。それは、オペラ、歌曲、オーケストラ曲など80曲にのぼるという。その中には、ベルディのオペラ『リゴレット』の弦楽四重奏化、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」などもある。こうした編曲の仕事は、大きな価値をもつようだ。

 私的な面と音楽史におけるリスト。それを語る上で、忘れてならないのが、恋とワーグナーとの関係だ。マリー・ダグー伯爵夫人(作家でもある)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃れる、約10年間にわたり生活を共にし、3人の子供が生まれた。
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その1人が、リヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。そんなことで、ワーグナーとは縁戚を結んだ。リストの死も、ワーグナー絡みだった。1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後、慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬されたという。小杉は、バイロイトにある墓廟を紹介してくれた。華麗な演奏と波乱に満ちた人生を送ったリストだが、それとは対比的な清楚な空間だった。その対比が興味深かった。
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 小杉は、最後に自身がリストの曲を演奏した映像をみせてくれた。堂々として、ダイナミックなリストの音だった。やはり実際の音はいい。みんなも喜んでいた。時間の関係で、聖職者の道をどう歩んだか、また晩年の仕事(「巡礼の年」など)について、語ってもらうことができなかった。またの機会をまちたい。
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サラのレクチャーとしても、こうした名音楽家について学ぶプログラムを考えていきたい。小杉の、今後の演奏活動に大いに期待したい。


(文責・柴橋)

第78回「木田金次郎美術館のこれまでとこれから」

第78回 2017年9月29日(金)

講 師: 岡部卓(木田金次郎美術館学芸員)

1969年札幌生まれ。岩手大学人文社会科学研究科修了(地域文化専攻)。1997年岩内町に採用、木田金次郎美術館学芸員として現在に至る。最初に担当した展覧会は「木田金次郎と神田日勝」。地域に根差した制作を行っていた木田金次郎を、地域に根差した活動から掘り下げることを意識して活動している。

思い出に深く残る展覧会は「木田金次郎の千石場所」2000年、「田上義也―北方建築の種」2010年など。


こぶりながら真珠のような美術館
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第78回レクチャーは、私の故郷である岩内から、木田金次郎美術館の学芸員岡部卓を迎えた。タイトルは、「木田金次郎美術館のこれまでとこれから」。
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話の構成は、二部構成だった。第Ⅰ部では、「木田金次郎美術館のこれから」。第2部では「木田金次郎美術館のこれまで」。通称「木田美」とよばれているが、岡部は、「ちょつと変った」美術館といいながら、その個性的性格に触れつつこういう。町がつくった美術館であること。美術館では、毎年「どんざ」祭を開催。作品のかなりの部分が、寄託の形でおさめられていること。木田金次郎に特化していること。年3本の企画を立ち上げ、これまで60本の展覧会を実施。そのつどポスターや図録を作成。こんなユニークな展示もあった。木田の作品をおさめた「額縁」や木田の蔵書にスポットを照射した「本棚」をテーマにしたものなど。
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このように地方美術館の中で、小ぶりながら真珠のような輝きを放っている。それができている最大の理由は、木田金次郎の「人となり」と作品が人を引き付けてやまないということであろうか。1954年の岩内大火により、大部の作品が灰に帰したが、その悲運から立ち上がって創作を続けた、その不屈性に感銘をうける人も多い。

また有島武郎と八木義徳により、2度にわたり小説モデルとなり、大きな話題となったことも力となった。木田は、多くの文人、ジャーナリスト、評論家、財界人と出会い交流していたが、彼らは、共通して木田の人となりと絵画が一致していることに強く感銘をうけたようだ。

木田は、岩内周辺を軸とした海や山を相手に、常に眼を澄まし、生気ある絵画空間を創生するために、貧を耐えながら孤軍奮闘した。そして日々真摯な姿勢を貫き、虚性を剥ぎ取った純生な美を、掴むために筆を動かし続けた。まさに画家の中の画家であった。

 岡部ら学芸員は、木田金次郎という「尽きぬ泉」から、水を汲むようにして、企画を立ち上げた。木田繋がりから、中央からたくさんの文人・評論家などが来岩し、美術館でレクチャーをしている。針生一郎、武田厚、池内紀、酒井忠康などたくさんいる。

岡部は、思い出に残る企画として「木田金次郎の千石場所」「木田金次郎の交流展」をあげていた。「千石場所」では、岩内、茅沼、神恵内、積丹の木田がキャンバスを立てた制作場を実証的に再考した。そこには、いまは姿を消した「ヘロカウルスの岩」もあった。木田は、50号のキャンバスを持ち歩き、現場主義を貫徹したが、木田が眼の位置などを変化させながら、ダイナミックな空間を造りだしていたという。
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また最近では、画家小谷博貞講演会の開催や、橋浦泰雄、田上義也をテーマにして、新しい視座で、木田交流圏に光を注いでいる。ちなみに小谷博貞と橋浦泰雄は、縁戚関係にあった。画家、社会主義者であった橋浦が、民俗学の道に入るきっかけをつくったのが、岩内での木田との出会いという。これまで見えなかったものが、クリヤーになり、木田交流圏は広く、深いものであったことが判明しているという。この紙幅が少なくなった。続いて「絵の町・岩内」として、「緑陰会」「山岸正己」「岩内高校美術部の活躍」「たら丸誕生」「前川茂利が撮った岩内」などを短く語ってくれた。
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第二部の「木田金次郎美術館のこれから」では、さらに作品との出会いを求めていきたいと決意をのべていた。作品の里帰りもあるという。女優小暮美千代が所有していた作品が、長い年月を経てリターンしたという。2018年は、名作『生まれ出づる悩み』が誕生して100年を迎えるという。これを記念し、札幌の「チカホ」空間でも展示を計画中という。

1人の画家の存在が、こうして町を活性化し、さらに全国へと交流圏(人脈)が拡大していく…。まさにこの美術館は、町の財産となっている。最後に一言。これからも町に根付きながら、美術館の新しいあり方を先見的に探ってほしい。(文責・柴橋)

2017年9月 1日 (金)

第77回「デザインの使い方―縦横無尽天衣無縫」

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講 師: 長谷川演(インテリアアーキテクト)

1966年弘前市生まれ。1990年「アトリエテンマ」設立、株式会社アトリエテンマ代表取締役就任。国内外に1000に及ぶプロジェクト、ブランディングを手掛ける。北海道の豊かな時間を伝えるため、「椿サロン赤レンガ店」など、道内に4店舗カフェを展開。オリジナルのプロダクトも手掛ける。他に「NPO法人アトリエテンマデザイン塾」を開塾。デザインのプロ、小・中学校での出張授業、企業経営者に至るまで、デザインを通した人材育成、コーチングにも力を入れている。趣味は華道と茶道。デザインの啓蒙と可能性を日々追い求めている。


生き方も、まさに縦横無尽、天衣無縫

 第77回レクチャーは、1966年に弘前市に生まれた長谷川演(ひろむ)さんにお願いした。題して「デザインの使い方―縦横無尽天衣無縫」。インテリアアーキテクトたる長谷川演、いま「旬の人」である。

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タイトルの如く、好奇心の赴くまま縦横無尽にジャンルを自在に横断している。90分をオーバーしながら、話は「もの」「ひと」「じかん」を巡って疾走した。はじめに、これまで手掛けた国内外のプロジェクトやプランニングをラッシュでみせてくれたが、あまりの多さに眩暈がするほどだった。その中には、「これも長谷川さんのデザインだったか」というものあった。

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長谷川は、若い時から、商店建築などの雑誌をみて、さまざまな知識と情報を吸収しながら、自分の空間をデザインすることを「夢」みていたという。独立するまでの「苦労話」が面白かった。最初に務めた会社では、手掛けた店舗が完成するまで一心不乱だったという。仕事が重なると、眠る暇もなく、外を歩いて信号が変わる僅か数秒間に眠りをとったこともあるという。「パンの耳」でお腹を満たしたこともあるという。みずからに超人的な修練を課して、自分の歩むべき方向を見出したようだ

長谷川は、23歳の時、「アトリエテンマ」(1990年)を設立し、そこをベースにして、これまで1000に及ぶさまざまなプロジェクトやプランニングを手掛けてきた。「アトリエテンマ」のコンセプトは、「デザインでもっと豊かにしあわせに」という。そのために、喫茶空間「椿サロン」においては、家具・食器などのプロダクトデザインも手掛けている。その中には、どうにも使うには、不便かなというスコップの形をしたフォークやナイフもあったが、長谷川はつねに「素材」を大切にしながら、「これまでにない」ものを目指してチェレンジしている。日高のカフェは、別名「夕焼け店」といい、「夕陽」を素材にしている。日没で店を閉じるという。まさに日高の海に沈む夕日を堪能するカフェだ。

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話を聞きながら、私はこの人の「ものづくりのスタイル」と、それを動かす指令基地となる「脳内構造」はどうなっているか考えてみた。まず「ものづくりのスタイル」であるが、どうも「思索型」ではなく、「直感型」タイプのようだ。つまりまず「行動」し、そこから状況を切りひらくという「実践派」にみえる。もう1つの「脳内構造」であるが、実に「柔らかい構造体」となっているようにみえる。なによりも、彼の脳は、「面白いこと」「楽しい空間」を「夢」みることでより活性化するようになっている。これは、独創的なモノを造りだす人の特質でもある。私は、これを「柔らかい脳」とよんでいる。まさに長谷川演は、「柔らかい脳」を全開させながら、つねに古いものを捨てながら、新規なものに挑んでいる。そして、これまでにないものをクリエートすることで、脳はさらに柔らかいくなり、より活性化するわけだ。つねにこれを反復することで、脳内構造は生動化にむかうわけだ。

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長谷川演は、店舗空間づくりと平行して、担い手づくりをめざして「デザインコーチング」を行っている。そこでは「デザイン」というものが、いかに「創造的行為」であるかということを、教えていきたいという熱望に支えられている。特に未来の大人となる子供達に、それを定着させることを目指し、チームを組んで小学校に出前授業している。「デザイン」することが、いかに楽しいことか、どんなに創造的なことであるか、それを実体験させている。つまり子供達に「デザイン」を「身体化」させているわけだ。実践的なキャリア教育であり、全国から高い評価をうけている。ことに取り組んでいる。長谷川は、さらに別な顔をもっている。茶道(裏千家)、お花(池坊)を嗜み、雑誌にエッセイを連載し、さらに「ブログ」にも熱心に取り組んでいる。まさに生活そのものも天衣無縫である。

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これからもペガサス(天馬)のごとく、さまざまなジャンルを横断して、飛翔していくことを願っている。(文責・柴橋)

 

2017年7月 1日 (土)

第76回「本の表紙を描いて」

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講師:民野宏之(画家)

1956年北海道生まれ。

1983年から油彩を始め、同年に初個展を開催。日常のなにげないワンシーンを描いた静かな気配漂う作品で注目を集める。1992年から、林真理子、三浦綾子、東野圭吾など数々の本の装丁画を手掛けている。2009年には資生堂カレンダーに採用。現在、札幌のアトリエを拠点に日本全国で展示会を開催するなど幅広い活動を行っている。

 

絵画にただよう静かな気配は、日々の暮らし方から生まれていた

 

76回レクチャーは、札幌宮の森のアトリエを拠点として風景画や静物画を描き、今年、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロなど、ベストセラー作家の本の表紙も数多く手がけている民野宏之氏と、SALAの柴橋伴夫代表との対談形式で行われた。冒頭で柴橋代表は、「長年にわたり民野作品を見続けてきた。良い仕事をしている。今日は彼の人柄も引っ張り出したい。」と述べた。人前で話す事の少ない民野氏の話を聞ける貴重な会とあって、会場は満席となった。

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民野氏は1956年、北海道岩見沢市出身。旧北海道美唄東高等学校に通った。学校が嫌いで、雨が降った日には一度も登校しなかった程だが、雨の音を聴くのは好きだった。アルバイト先のジャズ喫茶「志乃」へ足繁く通い、マイルス、コルトレーンから入って、チックコリア等に耳を傾けた。自らもアルトサックスを吹き、一度だけベッシーホールでライブを開き、トリオでフリージャズを演奏した事もあった。

 

本格的に絵画を始めたのは、20代後半を迎えた1983年から。同年に初個展を開催した場所は、昨年、惜しまれながら長い歴史に幕を閉じた『ギャラリーたぴお』だった。現代美術グループ『存在派』を主宰した金子辰哉氏と、F4キャンバスにリキテックスで絵を描いて遊んだ事がそのきっかけとなった。

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 画家となる経緯を話し終えた後は、スクリーンで作品画像をジャンル別に見ながら本人の解説が加えられた。まずは、「実際にあるものしか描かない」という民野氏が、日常のなにげないワンシーンを描いた静物画の数々。「具象的な静物画でも、抽象画のように色で遊びたい」との発想でカラフルなモチーフを探したシリーズから、数年前から愛用しているドイツ『シュミンケ』の絵の具を用いながらそのチューブを描いた作品、マカロンやmmチョコレート等のお菓子を描いた作品が紹介された。ある朝、目覚めた時に『溶けかけたアイスバーを描いたら面白いんじゃないか』と閃いたシリーズは、丁度良い溶け具合を待って描くのに苦労したという。トリミングがすっきりとした構図は、最初に「この部分を描きたい」と見定めて描かれている。

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続いて、空、雪原、木々等を描いた風景画の紹介。空を描いたシリーズは、アトリエ、飛行機、旅先など様々な場所で、気に入った雲に出会った時にスケッチを行い、後に油彩で描いたもの。柴橋代表からの『(見たままの)写実ではなく、その場の空気感を描き出しているようだが、何を大事にして描いているのか?』という問いには、「単純に、対象物を素直に描いているだけ。それを続ける事で、後から空気感が画面の中に入り込んだらいいなと思っている。」と答えた。鑑賞者も絵に入り込めるような場の空気感と気配は、素直に描写する日々の繰り返しから生まれているようだ。

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民野氏の一日は、午前4時半の起床に始まり、7時過ぎから1時間半ほどサイクリングに出て、戻ってから水彩画を描く。音楽はJAZZとクラシックを絵に合わせて選ぶ。昼食後には必ず昼寝をして、午後1時半頃から油絵を描く。夕方4時頃からビールを飲み始め(飲みながら描く事もある)、夕食でも引き続きビールを飲み、夜8時半には寝てしまう。そのような時間の使い方と心持ちが、自然と絵に入り込むのかもしれない。


やがて話題は、本レクチャーのタイトルでもある『本の表紙を描いて』に移行した。民野氏は1992年から、林真理子、三浦綾子、東野圭吾などをはじめとする、130冊の本の装丁画を手掛けている。頼まれ方にはいくつかのパターンがあり、大抵の場合、編集者からモチーフについて要望を言われるが、本の内容について説明的にならないように描く事が多いという。例えば、まずは初稿を全て読み、編集者・装丁専門デザイナーと打ち合わせして、どのような絵を描くべきかを決める。印刷物なのでテクスチャーにはこだわらずアクリルで描く場合が多く、早ければ1週間ほどで原画を描く。

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特に印象に残っているのは、先述のとおり今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作『わたしを離さないで』の表紙にまつわるエピソードで、個展会場に装丁家の坂川栄治氏が持ってきたカセットテープを描く事になったものの、台北への渡航が決まっていた事から、ほとんど旅先のホテルに引きこもって描き上げ、台北の郵便局から原画を送ったという。他にも、『百歳の幸福論』(加藤シヅエ)の表紙は既存の絵を使わせて欲しいと依頼されたもの。『不機嫌な果実』(林真理子)では、既存の作品に背表紙を加えて描き直した。『インタンジブル・ゲーム』(幸田真音)ではモチーフを任され、『悪と不純の楽しさ』(曽野綾子)ではフラ・アンジェリコ『受胎告知』の模写を頼まれベニヤに描いた。昨年手がけた『フェルメールの憂鬱』(望月諒子)では、小説の内容に合わせて実際にフェルメールの贋作の贋作を二枚描き、1ヶ月半程を要したという。

 

2009年には突然の依頼を受け、資生堂カレンダーにも採用された。時間をかけて打ち合わせが行われ、広めに描いた花々を、デザイナーが水滴越しに見えるイメージで切り取った。これまでに刺激を受けた画家・グラフィック作家は、心の師匠として「絵を描き始めた頃に一番刺激を受けたし、今見てもやはりすごい」と、アンディ・ウォーホルの名を挙げた。柴橋代表によれば、「ウォーホルはブルーノートのレコードジャケットなどのデザイン仕事も手がけており、、亀倉雄策も然り、グラフィックは見ただけで全てが語られるものが最高」であると語っている。民野作品が長年にわたり評価されているのもそれが所以だろうか。日本画では福田平八郎に刺激を受けたという。

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61歳。今後は、「車の免許を取るので、ドライブに行ってスケッチをしたい。作品はその中から生まれてきたらいいなと思っている。毎日練習して、少しずつ良い線を描いていけたら。」という。柴橋代表は、「安定感のある静かな絵が求められている時代。(民野作品を見ると)人柄そのものが絵の中にある。自分の今目の前にあるもの、感じた事を絵に入れている。その生き様を続けてほしい。」と締めた。


: 矢倉あゆみ

第75回「M.C.エッシャーとジャポニズム」

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講 師: 喜井豊子(美術家・エッシャー研究家)

エッシャーに憑りつかれた美術家

 第75回レクチャーは、「サラ」メンバーの喜井豊子(美術家)にお願いした。喜井は、若い時には油絵を描き、二十歳頃より革工芸を始めた。いまでも革工芸家として、絵画的色彩を生かして活躍している。今回のレクチャーは、革工芸家としてはなく、M・C・エッシャー研究家としてお願いした。ただ会場の壁には、自作のエッシャーとジャポニスムを主題にした作品を展示してくれた。

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人には、運命的出会いということがある。オランダの版画家に、M・C・エッシャーがいる。不思議な無限性や新しい遠近法を駆使した作品は不思議な錯視空間をみせ、子供から大人まで人気を集めている。エッシャーは、はじめ建築装飾美術学校に入学、建築からグラフィック・アート に変更し、SJMesquita(ド・メスキータ1868-1944)教授より版画を習っている。

喜井は、そのエッシャーの作品に出合い、探求心を燃やして、その図像研究に力を注いでいる。イタリアのフィレンツェ美術アカデミーで、そのエッシャーをジャポニスム(日本趣味)との関係で論じて卒論にした。

これまで、日本では、坂根厳夫がエッシャー研究者として、第一人者の位置を占めていた。ただ錯視空間を研究してもジャポニスムとの繋がりで調べる研究者は少なかった。文献がないなか、1点1点の図像を浮世絵などの日本美術とアナロジーしながら進めた。特に喜井は、エッシャーの父ゲオルギ・アルノルド・エッセル(日本では、ゲアエッセルと呼ばれたという)が明治期に来日し持ち帰った日本美術作品に着眼し、その図像がいかにエッシャー自身の作品に立ち表れてきているかを調査している。

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実は、エッセルは、明治政府お抱えの役人(技術者)として来日し、幾つかの仕事を残している。その1つに、坂井市三國にある龍翔小学校(現:みくに龍翔館)の設計・指導を行っている。私は、この「みくに龍翔館」をみたことがあるが、八角形の和洋折衷風のユニークな建造物でした。

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喜井は、それまでの調査結果を雑誌『ジャポニスム研究』に「M・C・エッシャーとジャポニスム」として掲載した。さらに精緻な図像調査を行い、今度は、「M・C・エッシャーとジャポニスム絵巻物展」として、数ヶ所において個展形式で発表した。私は、2016年の、NHK札幌放送局「ギャラリー」(9/30日-10/6))での展示をみた。その長い「絵巻物」は、エッシャーの作品を上におき、それに影響を与えた浮世絵などを下においていた。その比較検討がとても精緻で、分かりやすかったのを記憶している。

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このレクチャーでは、「ジャポニスムの歴史」を使いながら、「絵巻物」に記載した図像をみせながら、説明してくれた。たとえば北斎や着物の柄などの工芸などが、いかに下地にひそんでいるか、示してくれた。さらにジャポニスムが広汎な影響を及ぼし、ゴッホなどにも影を落としていることなどを実証的にみせてくれた。

また今年に入り、シーボルトコレクションを調査するため、オランダまで出向いている。さらに大倉喜七郎が1930年にローマの「パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ・ディ・ベッレ・アルティ」で開いた大規模な日本美術展覧会に関心を寄せている。この展覧会がエッシャーに何らの影響を与えたとみている。

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このように喜井は在野の研究者として、自分の眼と足を使い自費で調査研究を重ねている。自分のテーマを、時間をかけてじっくりと掘り下げていく。いろいろな困難があっても、それを諦めずに継続している。在野にこういう研究者がいる。とても嬉しいことだ。そんなことで、「サラ」のレクチャーにお願いしたわけだ。

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喜井は、さらにおおきな夢を描いている。この「絵巻物」を出版し、海外にも送り研究成果を世に問いたいという。1人の女性研究家がそれを成し遂げたら、大拍手ものである。夢は実現するためにあるもの。夢が実現することを強く祈りたい。(文責・柴橋)

2017年6月 1日 (木)

第74回「タイの文化システムから学ぶ―タイ王室と聖書翻訳そして日本」

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講 師: 日高嘉彦(北星学園大学チャプレン・教授)

熊本生まれ。東京神学大学修士課程修了後、キブツ(イスラエル)でボランティアとして働き、その後エルサレム・ヘブライ大学で二年間研鑽を積む。帰国後十年間、牧師をつとめ、1996年からタイ国バンコクの神学校で17年間旧約(ヘブライ語)聖書を教える。この間2002年から2012年までタイ聖書協会。2012年から現職。日本旧約学会、京都ユダヤ思想学会、基督教学会、基督教教育学会会員、神学博士。

翻訳の奥深さを感じた

 第74回は、日高嘉彦(北星学園大学チャプレン)にお願いした。題して「タイの文化シルステムから学ぶ―タイ王室と聖書翻訳そして日本」。

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日高は、これまでいろいろなことを体験してきている。東京神学大学で聖書を研究し、卒業後はイスラエルの「キブツ」でボランティア活動に参加している。さらにイスラエルにあるヘブライ大学でヘブライ語を学びつつ研鑽を積んでいる。

私が、北星学園大学で非常勤講師をしている関係で、日高がタイ語の聖書翻訳の仕事をしていることを知り、ぜひタイのことを含めて教えておしえてほしいとお願いした。


最初にタイと日本の関係について短く話をしてくれた。歴史的には過去において、日本と深い縁のあった国である。山田長政らは日本人町をつくり、経済的交流もあった。そして熱心な仏教国でもある。なにより東南アジアの中では、珍しく王室制度を維持している。これらが、日本が抱くタイに関する一般的イメージであろうか。

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日高の話は、はじめてのことが多く、とても驚くことが多かった。

聖書をタイ語に翻訳するにあたって、長年続いてきたタイ王室の文化が深く影響しているというのだ。いうまでもなく聖書はキリスト教の聖典であり、ヘブライ語で書かれている、だからタイ王室とは全く関係ないと思っていた。それはちがうという。なぜそうなるのであろうか。その理由は、タイ語には、「タイ王語」というものが基本にあるためという。全ては、この「タイ王語」に基づいて翻訳がなされなければならない。

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では「タイ王語」とは何か。それは、王族に対して使う特別な敬語のことという。「タイ王語」は、複雑である。同じ王族を呼称するにしても、高位であればあるほど言葉が長くなり、形容詞などを重ねて飾り立てるという。当然にも、国王の場合が一番長くなるという。日高も紹介していたが、テレビやラジオで王室のことを話す時は、充分な言葉づかいが必要という。アナウンサーは、それを知らないと大変なことになるという。ちなみに王を「プラ・バート・ソム・デット・プラ・チャオ・ユー・フォア」といい、それに「何世」とかをいれるという。そのため落語の「ジュゲム」のようにロングとなる。

つまり「立場」と「身分」などにより複雑な表現が存在するというわけだ。日本で、過去において天皇が何かをのべるとき、自らを敬語で「朕」というが、私達が天皇を指して「朕」といったら、不敬罪になるように、言語表現が厳格なルールにより定められている。

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タイの場合は、王室文化が日常生活においても、全ての基点にあるという。さらにしらべてみると、国王や王妃の誕生日は祝日となり、その祝日には、着る服の色も国王が生まれた「曜日の色」を着用するという。さらに現在でも王への敬愛心が強く、不敬罪が存在するという。

現在、世界のベストセラーたる聖書は、各国で翻訳されているが、また完全ではないという。あるデータによれば、世界に存在する約6900の言語のうち、聖書全巻、つまり旧約聖書の「創世記」から、新約聖書の「黙示録」までの翻訳が終わっているのは、550あまりの言語という。とすれば、ほんの一部にすぎません。とすれば、日高嘉彦が成した聖書のタイ語翻訳の業は、とても貴重なものといえる。

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それにしても、その国の言語というのは、その国や民族が辿ってきた歴史文化と深く絡んでくるものらしい。参加者も、そのことを知り、深い感慨を得たようです。(文責・柴橋)

2017年5月 1日 (月)

第73回「伝統俳句と前衛」

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講 師: 嵩文彦(詩人・俳人)

1938年網走生まれ。3歳の時帯広に移住。1956年帯広柏葉高校卒業。1957年北大医学進学課程入学と同時に句作を開始、道新読者俳句欄細谷源二に投句開始、しばしば一席に採られる。1960年医学部進学と同時に同人誌「あすとら」を発刊、句作をやめ詩作に転じる。1996年詩作をやめ句作を再開。2014年句作と並行して詩作を再開。20162月同人誌「奥の細道別冊」発刊に参加。現在に至る。

俳句の中に精神の自由を 

 

第73回レクチャーは、嵩文彦(だけふみひこ 俳句 詩人)にお願いした。題して「伝統俳句と前衛」。嵩は、レジュメを用意し、それに沿いながら順に話を進めてくれた。タイトルにあるように「前衛」と「伝統俳句」を対極に置きながら、具体的な作品を取り上げつつ自説を展開しながら、自在に論じてくれた。

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まず前衛思考のベースとなった、シュルレアリスムの受容に着眼してくれた。シュルレアリスムの美学は、既成の価値観を否定するものであったが、日本では、西脇順三郎や三好達治の作品にみられるように、「モダン」とイコールとなって定着したという。

一方の「伝統俳句」は、正岡子規の弟子たる高浜虚子が提唱した「花鳥諷詠」「客観写生」「季題」、この3つを絶対的「規範」として推し進められたという。

嵩は、この「伝統俳句」を批判的に捉えている。なぜだろうか。この「規範」では、「自然界・人間社会・世界」を厳しく認識することはできないという。というのも足元では人間が自然を破壊し、収奪し続けているからだという。それゆえにこの「規範」からは、表現者に大切な「批判的認識」と「積極的認識」が生起してこない、とかなり手厳しい。

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続いて俳句界の推移をかいつまんで紹介してくれた。嵩は、高浜虚子の結社「ホトトギス」からの離脱が進み、大きなウネリをもたらしたという。その代表的俳人に、水原秋櫻子、山口誓子らはいた。嵩は、山口誓子の「ピストルがプールの硬き面にひびき」「夏草に汽車の車輪来て止まる」を紹介した。いま詠んでも、新感覚の優れた句である。

その後、新興俳句運動が大きな渦を造り、いわゆる「自由律俳句」「無季俳句」が盛んになった。嵩が紹介してくれた高柳重信の句に驚いた。「きみ嫁けり遠き1つの訃に似たり」や「船焼き捨てし 船長は     泳ぐかな」だった。特に後者は詩のように行わけされ、さらに一行は「空け」である。斬新さをこえて意志的な、そして時間をもりこんだ句である。

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 さらに無季俳句が成熟を迎えた。その代表的作家として、細谷源二と西東三鬼らをあげていた。細谷源二は、工場労働者の生活俳句を提唱した方。「新興俳句弾圧事件」で検挙された。戦後になり北海道に移住後、「氷原帯」を創刊(主宰)した。その句「鉄工葬をはり真赤な鉄打てり」は、工場労働者の生活から生まれたもの。細谷には「戦争が廊下の奥に立ってゐた」があり、反戦の色合が濃い。実に深く心に訴えてくる力をもっている。戦時下で、細谷達が苦しんだように、国家体制の中に俳句運動全体が飲みこまれて行った。有季定型や客観写生にはむかうことは、国家体制への「反逆」とみなされたわけだ。多くの俳人が検挙された。そのたた新興俳句は大打撃をうけた。それが今も続いているという。 

最後に嵩は、いまの現況を見つめながら、「結社俳句」が権勢をほこり、表現行為をめぐっての厳しい論争もないことを憂いている。ただ小津夜景、大沼正昭、中村安伸ら、若い人たちが新感覚の作品をつくっているし、これからの動きに期待している。

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このように嵩は、表現者の1人として、前衛俳句の位置にたちながら、社会的視座をベースにおきながら、これまでの俳句の流れを辿ってくれた。嵩は、揺るぎのない意志を抱きながら、一貫して社会状況を批判的に見つめながら、句作している。だからこそ、このレクチャーは興味深かった。そしてこうもかんじた。嵩がもっとも大切にしているのは、どんな政治状況であっても「表現の自由」を奪われてはいけないことだと…。なぜなら「表現」とは、優れた批評的行為であり、それを喪失してしまえば、もっとも大事な「精神の自由」を喪失するからである。最後にひとこと。自作を紹介してほしかった。機会があったら、自作を軸にして表現論を展開してほしいと感じた。(文責・柴橋)

 

2017年4月25日 (火)

第72回「デザイン目で掴まえる~3D写真から一日一手まで」

72 2017224日(金)

講 師:市川義一(デザイナー)

1943年東京生まれ。広告代理店等の勤務を経た後、1974年札幌に移住。19923D写真展「Flight Landscape展」、2001年「数学あそび展」、2002年広島市江波山気象館ミュージアム「ラピュータ展」、2005年東京元麻布ギャラリー「市川義一個展」、2015500m美術館「札幌のデザイン展」。

著書:『ラピュータ』『グラグラ日記』。

作品掲載
CG STEREOGRAM』(小学館)

ORIGINAIL 誌』(ドイツ・マンハイム社)
3DLOVE』(東京都写真美術館・図録)


一日一手 その自在な精神運動が孕むもの

 

第72回レクチャーは、「サラ」のメンバーであるグラフィックデザイナー市川義一にレクチャーをお願いした。市川は、自在の人である。何が自在かといえば、精神の働きが自在ということだ。何せ、「発想」が自由で面白いのだ。その自在な精神の運動を存分に紹介してくれた。

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まずこれまでの歩みを紹介してくれた、生まれは東京である。広告代理店や制作プロダクションで仕事をしてきた。1974年に札幌に移住し、1988年には、自らのデザイン事務所「フィールド・ノート」を設立した。

最初にみせたくれた市川の父の写真が印象に残っている。昔気質の職人、つまり手で物を造りだすクリエーターの相貌をもっていた。私は、市川のアートワークに特別の関心を抱いているが、それは手の技を大切にしているからだ。手の技や道具を重んじる、それは父のような江戸の職人技が影響しているのでないか。

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私は、市川の個展もかなり前からみている。私の記憶では、1992年の「ギャラリー・たぴお」での「3D写真展」が最初だったような気がする。「3D写真展」はかなり変わった写真展だった。自然風景や人物肖像ではなく、サイズの小さな雲の写真だった。一時期、市川はこの「3D写真」にかなりのめりこんでいた。東京と札幌を往復するフライトの中で、窓の外で展開する風景(雲)に虜になり、それを撮り3Dで作品化していた。当時、同じ試みをしていたのが赤瀬川原平だった。市川も赤瀬川も、人が「裸眼立体視」ができることを活用して、行ったわけだ。さらに「雲の3D写真展 ラピュータ」を開催している。その後もグラフィックな技を生かして、ユニークな「数学あそび」にも挑んでいる。

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 さて私は、今回レクチャーをお願いした最大の理由(わけ)は、手をつかって「日々の記録」にとり組んでおり、その深化・発展に関心を抱いているからだ。

一日に起こる出来事。それは膨大な情報量である。そこから自分に繋がるものをピックアップし、それを記録としてのこす。その選択に市川の問題意識(社会的な、文化的な)が反映することはいうまでもない。

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この「日々の記録」つくりのスタイル、文学的にいえばどこか永井荷風的である。荷風は、40数年にわたり「断腸亭日乗」(日乗とは、日記のこと)を綴った。

市川の「日々の記録」もさまざまに変容している。たとえば墨と筆で「巻物」スタイルに設えたものもある。書字と絵、そのコラボがとてもいい出会いをしていて、私は長い時間かけて「読んだ」ことがある。そしてこう感じた。この長大な記録帖は、手づくりの「現代の絵巻」であると。

 このようにこのデザイナーは、手わざをとても大切にしている。AIの出現に象徴されるように電子脳が大手を振るう現代。情報が飛び交い、自分の場が見えなくなっている今という時間。だからこそ、私達は、自分の手と技に立ち戻るできではないか。やや大袈裟にいえば、「手の復権」ということになるが、そんな難しい言葉を使わなくてもいい。自分の手と脳を少し、使い、動かせばいいのだ。市川は、さらに「一日一手」を続けるという。手は、口以上にモノをいうのだ。そして手とは、原始以来綿々と、偉大な創造者であり続けているのだ。

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これまで綴った作品を見せてくれたが、すでに凄い量となっている。この執念、この継続する意志の力。淡々にみえるが、続けることは至難のこと。

ぜひとも継続を期待したい。そこに何を記録するか、そこにどんな心情を吐露するか。何に怒り、何に悲しむのか、その実相をぜひともみたいのだ。(文責・柴橋)

 

 

第71回「繋がっていく小さな出来事」

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講 師:瀬川葉子(美術家)

1955年札幌生まれ。杉山留美子絵画教室へ通う。北海道教育大学特設美術科卒。20代より抽象的作品づくりを行う。「北海道現代作家展」に出品。一時活動を停止、2010年より制作再スタート。厚紙にペンなどでドローイング。生活者の視座で「ファイル」作品づくり。「高橋靖子・瀬川葉子二人展」「一瞬の響き」「ファイル」「4つのdays」「EAU/H」などを開催。現在、精力的に「日記のようなもの」をライフワークとして取り組んでいる。


抽象から日常の地平へ 

 

第71回レクチャーは、美術家の瀬川葉子にお願いした。私の中で瀬川葉子という美術家は、長く抽象画家として存在していた。

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道展でも協会賞をうけ、若手の抽象画家として大いに注目をあびていた。湧き上がる想念を、平面の中で幾何学的パターンとして形象化していた。こうした抽象平面づくりを通じて、ある種の「自分探し」をしていたのかもしれない。その頃の心象を瀬川は、こう語っていた。「期待や不安が入り混じりその中にかすかな予感のような手がかりが浮かびあがってくるが、それがまだ脈絡のない、何かが起こる前の予感に満たされた保留の状態」と。

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まさに<何かが起こる前>という予感に満たされた状態で、制作は一時休止した。休止に至る身辺の変動を今回少し語ってくれた。結婚、出産、育児があったという。その生活の変動の中で、身体に異変が起こり、制作できない状態が続いた。20年近いブランクをのりこえ、再出発をきった。ブランクのトンネルをこえてから、瀬川のアートワークは平面絵画から転じ、さまざまな身辺のものを使うことになる。

最初は、廃棄される紙や、コピー用紙、封筒が素材となった。そこにボールペンや筆ペンでドローイングを残した。日々のドローイングが、彼女の身体を回復させ、さらに見えないものと接しているという感覚を得たという。ドローイングを行っていると「人間であることと、自然の中から生まれ、その繋がりの中に共鳴しながら在る事」を知らされたとのべている。つまり無意識的な行為であるドローイングが、自然や人間との繋がりをつくる営みとなり、特別な意味を帯びてきたわけだ。

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さらに日常性の中に数多くの素材があることに、無上の喜びを感じた。ティッシュ箱、お菓子の箱に使用されているボール紙、梱包材、糸屑、毛糸、ゴムなど使った。そんな素材を使った作品をクリアファイルに綴じた。少しずつ形態も自由な形態を帯び、抽象性をみせてきた。

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こうして自分の日常空間から、素材を見出し、それからアートワークを立ちあげていった。私は、このレクチャーの中で、瀬川は現代歌人の歌に深く共感すると語っていたことを、重くみたい。1つは、葛原妙子の「水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪黴びたり」。テーブルの上でチーズが黴びている日常の情景なのだが、「幻視の女王」といわれる歌人はそこに「水の音」を聞いている。瀬川は、この「水の音」は、生活の場、つまり台所での音ではないかと察している。いわば瀬川は、葛原の歌がつねに日常の向こうにもう1つの「幻視」の光景をかいまみていることに心を騒がしたようだ。現代歌人糸田ともよ「雨の日に届く封書は森のにほい おりたたまれた木の葉の弾力」にも感じるものがあるという。歌人は、「雨の音」を聴きながら、届いた封書に「森のにほひ」を嗅ぎつつ、手に葉の気配は残ったという。瀬川は、「手にするとささやかな喜びを感じる封書の感触と、私の憧れであり故郷である森が、雨の日のにおいとともに重なり、森からの便り、というようなイメージが喚起された」という。瀬川は幼少期、定山渓の自然から大きな恵みを受けていた。そのことを、この歌から思い出したのであろうか。

さらに瀬川は、テキスタイルデザイナーのヨーガン・レールの作品づくりの仕方にも興味ふかいものがあるという。ヨーガン・レールは、沖縄の浜辺で拾ったゴミで照明器具を制作した。廃棄し、捨てられたものが、光を発するものになっていたからだ。

歌人やデザイナーが日常の小さなこと、それを大きな力として人の意識に深く作用する作品を造りだしていること。そのことに深く心撃たれたのだ。

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瀬川もまた、「しなやかな感性」をバネにして、日々の「生のいとなみ」をなにより大切にしながら、そこから美の在りかを探している。近作には「森は水を湛えて」(2017年)がある。そこではちぎる、削る、塗る。垂らすという行為を積み上げ、作品は大きな空間を開示している。新しい方向に向かっているようだ。見た人は確かにそこに「森」の気配を感受し、またある者は「森」の中を歩いている感覚を得ていた。どんな美の形象が生まれるか楽しみにして待ちたい。(文責・柴橋伴夫)

 

 

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