2017年4月25日 (火)

第72回「デザイン目で掴まえる~3D写真から一日一手まで」

72 2017224日(金)

講 師:市川義一(デザイナー)

1943年東京生まれ。広告代理店等の勤務を経た後、1974年札幌に移住。19923D写真展「Flight Landscape展」、2001年「数学あそび展」、2002年広島市江波山気象館ミュージアム「ラピュータ展」、2005年東京元麻布ギャラリー「市川義一個展」、2015500m美術館「札幌のデザイン展」。

著書:『ラピュータ』『グラグラ日記』。

作品掲載
CG STEREOGRAM』(小学館)

ORIGINAIL 誌』(ドイツ・マンハイム社)
3DLOVE』(東京都写真美術館・図録)


一日一手 その自在な精神運動が孕むもの

 

第72回レクチャーは、「サラ」のメンバーであるグラフィックデザイナー市川義一にレクチャーをお願いした。市川は、自在の人である。何が自在かといえば、精神の働きが自在ということだ。何せ、「発想」が自由で面白いのだ。その自在な精神の運動を存分に紹介してくれた。

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まずこれまでの歩みを紹介してくれた、生まれは東京である。広告代理店や制作プロダクションで仕事をしてきた。1974年に札幌に移住し、1988年には、自らのデザイン事務所「フィールド・ノート」を設立した。

最初にみせたくれた市川の父の写真が印象に残っている。昔気質の職人、つまり手で物を造りだすクリエーターの相貌をもっていた。私は、市川のアートワークに特別の関心を抱いているが、それは手の技を大切にしているからだ。手の技や道具を重んじる、それは父のような江戸の職人技が影響しているのでないか。

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私は、市川の個展もかなり前からみている。私の記憶では、1992年の「ギャラリー・たぴお」での「3D写真展」が最初だったような気がする。「3D写真展」はかなり変わった写真展だった。自然風景や人物肖像ではなく、サイズの小さな雲の写真だった。一時期、市川はこの「3D写真」にかなりのめりこんでいた。東京と札幌を往復するフライトの中で、窓の外で展開する風景(雲)に虜になり、それを撮り3Dで作品化していた。当時、同じ試みをしていたのが赤瀬川原平だった。市川も赤瀬川も、人が「裸眼立体視」ができることを活用して、行ったわけだ。さらに「雲の3D写真展 ラピュータ」を開催している。その後もグラフィックな技を生かして、ユニークな「数学あそび」にも挑んでいる。

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 さて私は、今回レクチャーをお願いした最大の理由(わけ)は、手をつかって「日々の記録」にとり組んでおり、その深化・発展に関心を抱いているからだ。

一日に起こる出来事。それは膨大な情報量である。そこから自分に繋がるものをピックアップし、それを記録としてのこす。その選択に市川の問題意識(社会的な、文化的な)が反映することはいうまでもない。

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この「日々の記録」つくりのスタイル、文学的にいえばどこか永井荷風的である。荷風は、40数年にわたり「断腸亭日乗」(日乗とは、日記のこと)を綴った。

市川の「日々の記録」もさまざまに変容している。たとえば墨と筆で「巻物」スタイルに設えたものもある。書字と絵、そのコラボがとてもいい出会いをしていて、私は長い時間かけて「読んだ」ことがある。そしてこう感じた。この長大な記録帖は、手づくりの「現代の絵巻」であると。

 このようにこのデザイナーは、手わざをとても大切にしている。AIの出現に象徴されるように電子脳が大手を振るう現代。情報が飛び交い、自分の場が見えなくなっている今という時間。だからこそ、私達は、自分の手と技に立ち戻るできではないか。やや大袈裟にいえば、「手の復権」ということになるが、そんな難しい言葉を使わなくてもいい。自分の手と脳を少し、使い、動かせばいいのだ。市川は、さらに「一日一手」を続けるという。手は、口以上にモノをいうのだ。そして手とは、原始以来綿々と、偉大な創造者であり続けているのだ。

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これまで綴った作品を見せてくれたが、すでに凄い量となっている。この執念、この継続する意志の力。淡々にみえるが、続けることは至難のこと。

ぜひとも継続を期待したい。そこに何を記録するか、そこにどんな心情を吐露するか。何に怒り、何に悲しむのか、その実相をぜひともみたいのだ。(文責・柴橋)

 

 

第71回「繋がっていく小さな出来事」

71 2017127日(金)

講 師:瀬川葉子(美術家)

1955年札幌生まれ。杉山留美子絵画教室へ通う。北海道教育大学特設美術科卒。20代より抽象的作品づくりを行う。「北海道現代作家展」に出品。一時活動を停止、2010年より制作再スタート。厚紙にペンなどでドローイング。生活者の視座で「ファイル」作品づくり。「高橋靖子・瀬川葉子二人展」「一瞬の響き」「ファイル」「4つのdays」「EAU/H」などを開催。現在、精力的に「日記のようなもの」をライフワークとして取り組んでいる。


抽象から日常の地平へ 

 

第71回レクチャーは、美術家の瀬川葉子にお願いした。私の中で瀬川葉子という美術家は、長く抽象画家として存在していた。

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道展でも協会賞をうけ、若手の抽象画家として大いに注目をあびていた。湧き上がる想念を、平面の中で幾何学的パターンとして形象化していた。こうした抽象平面づくりを通じて、ある種の「自分探し」をしていたのかもしれない。その頃の心象を瀬川は、こう語っていた。「期待や不安が入り混じりその中にかすかな予感のような手がかりが浮かびあがってくるが、それがまだ脈絡のない、何かが起こる前の予感に満たされた保留の状態」と。

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まさに<何かが起こる前>という予感に満たされた状態で、制作は一時休止した。休止に至る身辺の変動を今回少し語ってくれた。結婚、出産、育児があったという。その生活の変動の中で、身体に異変が起こり、制作できない状態が続いた。20年近いブランクをのりこえ、再出発をきった。ブランクのトンネルをこえてから、瀬川のアートワークは平面絵画から転じ、さまざまな身辺のものを使うことになる。

最初は、廃棄される紙や、コピー用紙、封筒が素材となった。そこにボールペンや筆ペンでドローイングを残した。日々のドローイングが、彼女の身体を回復させ、さらに見えないものと接しているという感覚を得たという。ドローイングを行っていると「人間であることと、自然の中から生まれ、その繋がりの中に共鳴しながら在る事」を知らされたとのべている。つまり無意識的な行為であるドローイングが、自然や人間との繋がりをつくる営みとなり、特別な意味を帯びてきたわけだ。

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さらに日常性の中に数多くの素材があることに、無上の喜びを感じた。ティッシュ箱、お菓子の箱に使用されているボール紙、梱包材、糸屑、毛糸、ゴムなど使った。そんな素材を使った作品をクリアファイルに綴じた。少しずつ形態も自由な形態を帯び、抽象性をみせてきた。

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こうして自分の日常空間から、素材を見出し、それからアートワークを立ちあげていった。私は、このレクチャーの中で、瀬川は現代歌人の歌に深く共感すると語っていたことを、重くみたい。1つは、葛原妙子の「水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪黴びたり」。テーブルの上でチーズが黴びている日常の情景なのだが、「幻視の女王」といわれる歌人はそこに「水の音」を聞いている。瀬川は、この「水の音」は、生活の場、つまり台所での音ではないかと察している。いわば瀬川は、葛原の歌がつねに日常の向こうにもう1つの「幻視」の光景をかいまみていることに心を騒がしたようだ。現代歌人糸田ともよ「雨の日に届く封書は森のにほい おりたたまれた木の葉の弾力」にも感じるものがあるという。歌人は、「雨の音」を聴きながら、届いた封書に「森のにほひ」を嗅ぎつつ、手に葉の気配は残ったという。瀬川は、「手にするとささやかな喜びを感じる封書の感触と、私の憧れであり故郷である森が、雨の日のにおいとともに重なり、森からの便り、というようなイメージが喚起された」という。瀬川は幼少期、定山渓の自然から大きな恵みを受けていた。そのことを、この歌から思い出したのであろうか。

さらに瀬川は、テキスタイルデザイナーのヨーガン・レールの作品づくりの仕方にも興味ふかいものがあるという。ヨーガン・レールは、沖縄の浜辺で拾ったゴミで照明器具を制作した。廃棄し、捨てられたものが、光を発するものになっていたからだ。

歌人やデザイナーが日常の小さなこと、それを大きな力として人の意識に深く作用する作品を造りだしていること。そのことに深く心撃たれたのだ。

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瀬川もまた、「しなやかな感性」をバネにして、日々の「生のいとなみ」をなにより大切にしながら、そこから美の在りかを探している。近作には「森は水を湛えて」(2017年)がある。そこではちぎる、削る、塗る。垂らすという行為を積み上げ、作品は大きな空間を開示している。新しい方向に向かっているようだ。見た人は確かにそこに「森」の気配を感受し、またある者は「森」の中を歩いている感覚を得ていた。どんな美の形象が生まれるか楽しみにして待ちたい。(文責・柴橋伴夫)

 

 

2017年1月13日 (金)

第70回「絵と人生」

70 20161125日(金)

講 師:渡辺貞之(画家)

1940年旭川生まれ。道学芸大(旭川校)卒。

秩父別町開拓記念像制作(1995)。網走美術館企画で「天使の詩が聞こえる」展開催(2006)。私設「うなかがめーゆの美術館」開設(2002)
現在アートホール東洲館館長、全道展会員。

独立展準会員推挙(2007)、独立展選抜展で奨励賞(2014)を受ける。
深川文化賞受賞(2003)

絵を通じて人生をみた   

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第70回例会は、深川在住の画家渡辺貞之にお願いした。タイトルは、「絵と人生」だった。渡辺は、いくつもの顔をもっている。深川にある東洲館の館長を務めながら、地域文化の育成に力を尽くしている。その中の1つが、芝居づくりである。自ら脚本や舞台構成を担当しながら多くの市民と交流している。また数年前には、全道展の事務局長を務めていた。渡辺は、道内に幾つかの公募展があるが、この会の価値について、「人を育てる会」であり、それはとても大切なことだと語っている。ただ絵が技術的にうまくなるのではなく、「人を育てる」という視点は興味ふかい。なぜなら人が絵を描くのであり、その作家の人間性が宿らない作品はとても薄ぺらいものになるからだ。

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本題にはいる前に、これまでの作品の歩みをスライド映像で紹介してくれた。大きな変遷があった。1980年代には、室内状景の中に人体の部位を点在した。1990年代には、「回転」シリーズへ、さらに2000年頃から子供が登場する「黒い羽根の天使」シリーズとなり、最近の演劇的要素を組み入れた「ごっこシリーズ」に発展した。

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渡辺は、絵と人生を語る上で、教員(小学校)生活は大変重要という。長年の教員生活の中で、子供から多くのこと学んだという。子供の絵は一枚一枚が、素晴らしい価値があるという。なぜなら絵の中に、子供の心がそのまま映しだされているからだという。今回、母牛と子牛を描いた子供達の絵をみせてくれた。ある子は母牛のやさしさを強調し、ある子は子牛の表情に着目して描いていた。そこには「上手、下手」を超えた何かが表出していた。絵には、独創的な構図もあり、なにより自らの心をストレートに絵に押し出していた。

渡辺は、このレクチャーで、子供の頃から貧しい生活の中で多くに素晴らしい友人(仲間達)や先生から、多くのものを与えられたかを語っていた。それが財産になっているという。だからこそ自分にとって絵と人生は切り離すことはできないという。この話をきいて、私は、この画家は、絵を描くことで自分を見つめ、絵によって自分が支えられ、またそこから新しい自分を作りだしてきたのだと感じた。

子供の頃から絵のうまい子だったようだ。小学校時代には、たくさんのポスターコンクールに入賞したという。大学時代に師から「ひたすらデッサン」が大切と教えこまれた。それを日々実行した。デッサンすることで、しっかりと対象をみつめることを学んだ。そうすることで当時席巻した抽象画の波をうけることがなく、具象画に留まったという。いまでも「ひたすらデッサン」を続けているという。

ここで渡辺の絵画の特質について、少し語っておきたい。絵の中に子供達を描いているが、そこに大きな意図が隠されている。渡辺は、「子供は天使」の表情もするが、ある時は「悪魔的な表情」をすることがあるという。つまり子供を、「小さな大人」としてみている。羽根をはやした子供。さまざま遊び(ごっこ)に興じる子達。そして絵の中にある種の心理劇や深層心理を持ち込んだ。つまり舞台状景という「虚の世界」に、現代人の心を象徴させたわけだ。だから一見してとても入りやすいが、実のところ深いものが隠されているのだ。

最後に私からお願いをしたい。地方で美術館を運営することはとても大変なことだ。深川の東洲館がより地元に根ざした活動が進展することを…。そして渡辺の絵画がさらに現代性を帯びながら、独立展おいても確固たる評価が得ることができるようにと…。(柴橋)

第69回「漆」

69 20161028日(金)

講 師:渡邊希(美術家)

1982年札幌生まれ。

東北芸術工科大学卒業・同大学院修了後、青森県弘前市で塗師・松山継道氏に師事。漆を用いて乾漆技法を主体に作品を制作。

漆造形、うつわ、小物、家具などを手掛ける。
2008
年初個展(札幌・大丸藤井セントラル)、以降札幌を拠点に国内外の展覧会に参加。
2014個展「東京青山・スパイラルホール」2008年から北海道新聞コラム連載。
2015年アートワーク「大阪・新ダイビル」「札幌大地みらい信用金庫」、銀座三越常設。

「漆の美」でアートワークに挑む

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第69回レクチャーは、美術家の渡邊希に「漆」と題して話をしていただいた。渡邊は、「漆」を工芸の枠にとどめることなく、その可能性をさまざまな形で発展させている。

「漆」を学ぶため東北の地を選んだ。東北芸術工芸大学で学び、さらに同大学院をおえた後、弘前市で漆塗師の松山継道に師事した。松山は江戸時代が続く伝統の津軽塗を継承しながら制作していた。

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ただ渡邊は、技術を習得しながらも、「器」を造る「職人の道」を歩むことはなかった。渡邊は、伝統技法を生かしながら、その「枠」から自由になりたかったようだ。自分の感性によりそいながら、どんなに厳しい道であっても自分が納得する「作品づくり」を目指した。つまり創造的な仕事をするアーティストになることを選んだわけだ。この決断が、おおきな転回点となった。

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 渡邊は、古くは仏像制作の1つの技法でもある「乾漆技法」を軸にして、新地を切り拓いた。食器や家具なども制作した。

今回は、そうした作品を会場にもちこみ、見せてくれたが、みんなそれらを手にしてその軽さや色合いの見事さに驚いていた。

渡邊は、この「乾漆技法」を活用し、さらに彫刻的作品に挑んでいる。その代表作が2015年にオープンした、大阪の北区堂島にある「新ダイビル」のアートワークだった。

この旧ビルは、調べてみると1963年に建築家村野藤吾により設計されていた。堂島のシンボル的存在だった。それを新ビルは、日建設計が設計、大林組が施工した。新しいビル空間は全体として約1000坪もあるという。

渡邊は、2体のアートワーク「景 ―朱―」「景―金―」を設置した。「朱」と「金」はそれぞれ「和の色光」を放ち、この空間で流れる「時間」に応じて変化した。また周りのガラスにも反映し、華やかさと新生な感覚をつくりだした。ビル側は、2つの「景」は、「都市と自然、内と外、人と建築」を繋いいでいると高く評価している。

また札幌にも彼女の作品が置かれている。札幌駅の近くにある「札幌大地みらい信用金庫」の空間においたアートワークだ。ぜひ見る事を勧めたい。

大型の透かし造形となっている。この透かし彫りは、漆の素材自体が芯となりしぜんと形を作りだしている。彼女の作品を理解する上の重要な作品となっている。

このように渡邊は、建築空間とのコラボレーションにより、和のティストを持ち込むことで、これまでにない美を造りだしている。

歴史が浅い北海道では、どうしても伝統的な「漆」工芸を学ぶ場も、発表する機会の少なく、いろいろな面で不利になっていた。その不利な状況を跳ね返して、「漆」でアートワークに挑む彼女の姿は、これからの若い人に勇気と自信を与えてくれるに違いない。

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こんな女性美術家が生まれたことを掛け値なく喜びたいし、これからも開拓精神を燃やして、いろいろな機会を生かして、「漆の美」のさらなる進展をみせてほしいものだ。

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(柴橋)

第68回「私の絵画制作とその見方」

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講 師:鈴木秀明(画家)


1948年旭川市生まれ。函館市在住。
安井賞展(第31回、第32回)に出品。1992年第1回小磯良平展入選。1992年第26回現代美術選抜展出品。
東京都美術館主催「ベストセレクション美術2014展」出品。
1993年安田火災美術館財団奨励賞展秀作生。
1993年第7回青木繁記念大賞展出品。

現在、日本美術連盟会員、美術文化協会会員、新道展会員

「虚なるもの」に真実をみつめる眼
第68回レクチャーは、函館在住の画家鈴木秀明にお願いした。題して「私の絵画制作とその見方」。会場には新道展などの画家の姿が多くみられた。鈴木は、札幌で美術文化協会展、東京でグループ展を開催しており、そんな忙しい時間を割いてレクチャーをしてくれた。 
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私は個人的にも親交のある画家で、小画集づくりに協力させて頂いたことがあるが、「
これまでの歩み」をゆっくりと聞くことがなく、とてもいい機会となった。特に大学を卒業して、初赴任した根室の成央小学校では、専攻外の図工の専科を担当することを命じられたことが、「絵とは何か」を考えるきっかけとなったという。専門外の教科指導のためかなり苦労したようだ。特に「子供の絵の評価をどうするのか」「教授法をどうするか」などかなり重い課題となった。
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そうした課題を背負いながら、地元の公民館で開講されていた絵の講座に参加した。師
は画家の亀浦忠夫だった。師のアドバイスもあり、その後は新道展や美術文化協会展に出品することになる。ただ鈴木の凄い所は、初体験の絵づくりをしながら自作の評価を求めて公募展に出品したことだ。怖れを知らずに半年足らずで制作した100号「永遠に」で
新道展道新賞を受けた。
その後は、さらにシュールな画風を深め、「細胞」「殖」「プランクトン」などを主題にした。大きな賞(新道展協会賞、美術文化協会賞など)も受賞するようになった。デッサンは不得手であったが、技術などで製図法など学んでいたことが、線を引いたり、構図づくりに役にたった。
鈴木の絵画は、高度経済成長の繁栄を賛美する風潮とは逆向きに、解体する人間や不安
な空間を描いていくことになる。その典型が鈴木の代表作でもある「予感Ⅰ」であろうか。
ドアの前の変形した顔。壁には人影。実に不安な人間の状況が描かれていた。その後は公募展の「枠」から出て、積極的に対外試合にチャレンジしている。安井賞展に二回出品、安田火災美術財団奨励賞展(秀作賞)、第7回青木繁記念大賞展など数多くの場で評価されている。
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その前後の絵画の変遷をみておくと、80年代には「幻想的なリアリズム」の傾向が強まり、神話などを題材にしながら黙示録的な色彩が濃くなる。90年代には、古代ギリシャの彫刻が登場し、完全なる美も崩壊するという視座で、「古代幻想」をシリーズ化する。2000年代には、さらに神話から聖書世界へと幅を広げ、「ラザロの復活」「ネクロポリス」などを生みだしている。特に「ラザロの復活」はこれまでにない流動する空間を造りだしている。
私からみて、その「歩み」は大きな視点でみれば、「虚なるイメージ」が底流に流れているが、徐々にエロスや美の崩壊から、「死と再生・復活」というテーマに動いているように感じた。それは画歴が40年を超える中で、時代相を見つめる眼が大きく変化したことを示しているようだ。
全体を通じてこのレクチャーでは、主題の変遷と時代との相関性についてもうすこし詳しいコメントが欲しかった。内面の変化とはどういうものであったか聞きたかった。
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最後に独自な視点で編みだした20項目からなる「自己評価の視点」(造形要素)を語ってくれた。それは造形の特質を確認するためのもので、いわば「鈴木秀明式評価ルール」というべきものだった。自己評価基準でもあり、他者の作品評価基準ともなるようだ。
その1つの項目「個性」(観念・環境)には、「事物の個人的概念+想像力+抽象化+高
貴さ+情熱=強い表現=全体の調和=個性」となった。
これからも分かるように、マチエールやヴァルールのような絵画的要素だけでなく、この画家はかなり画家の「個性」を重要視しているようだ。
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(文責・柴橋)

2016年10月28日 (金)

第67回 私のやきもの

67 2016826日(金)

講 師:葛西義信(藍山窯・陶芸家)

1973年砥部焼窯元「梅山窯」入社。

1978年日本クラフトコンペ京都入選(京都勧業館)。

1981'81日本クラフト展入選(銀座、松屋)。

1982年余市町豊岡築窯「藍山窯」設立。

1983年朝日現代クラフト展入選(梅田、阪急)。

1985年東京・荻窪「銀座」個展、以降毎年開催。

1986年より札幌で個展。

現在栗沢町美流渡に藍山窯を開いている。



北の自然に育まれた器達

 

第67回レクチャーは、「私のやきもの」と題して、栗山・美流渡(みると)にすむ葛西義信(陶芸家)にお願いした。今回私は、このレクチャー準備にあたって美流渡にある葛西の工房「藍山窯」を訪れ、やきものを造る現場と作品などを拝見させてもらった。この時に制作する光景を撮影させていただき、それをレクチャー用の映像資料に活用させてもらった。そのこともあり、ここでは藍山窯の見聞を含めながら、レクチャーの内容を私なりの視点でまとめておきたい。

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始めに葛西はこれまでの歩みを 短く語ってくれた。葛西は、1946年に天塩町生まれた。家は酪農(牛飼い)を営んでいたという。葛西は、故郷を離れ、関東へ出て仕事に就いた。働きながら、鎌倉にある佐助窯に出向いて、小竹章の「通い弟子」になった。さらに陶芸家を目指して、1972年には愛媛県にある歴史ある砥部(とべ)焼の梅山(ばいざん)窯に入社した。日々技法を磨きながら作品を造った。と同時に、意欲的に日本クラフトコンペなどに出品した。1982年には、独立して余市豊丘に藍山窯を設立した。朝日クラフト展などに入選(1983年)した。さらに自作を並べて荻窪「銀花」や札幌丸善で個展を開催するまでになった。一九九〇年から栗山・美流渡に移住し、現在に至っている。

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まず葛西は、北海道では数少ない「ろくろ成形」の磁器づくりをしている。私が、葛西に声をかけて、レクチャーをお願いしたのは、その磁器づくりの素晴らしさをみんなに知ってもらいたいと考えたからである。今回は、会場にたくさんの作品や道具類をもってきてみせてくれた。素材となる京都から取り寄せている石も持参してみせてくれた。  

私たちは、なかなか職人の手足となる大小様々な箆(へら)や布などの道具類をじかに目にすることはできない。だからとても興味深かった。特に梅山窯の先輩からいただいた道具は、まさに職人がいのちのようにして大切にしているものだったようだ。後輩にそれを預けることは、お前も「しっかりといい仕事をせよ」を励ましているようだ。また手製の小さな道具も使っている。私が関心を抱いたのが手製の米藁を捩じったもの。針金のようにシャープにカットする時に、力を発揮するという。工房でも感じたことだが、葛西の器を造る時の仕草をみていると、ほとんど無駄がないことに気づかされた。珈琲カップの手持ち部分、その補強の技も見事だった。熟練した職人技、その極みを感じた。

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葛西は、人々が暮らしの中で使うものを造っているが、北の自然で出会った植物や花をモチーフにしている。葛西は、かつて案内状にこう書いている。「ここ美流渡も、山葡萄の葉が色づいてきました。山の熊も喜んでいる様です。美流渡の自然にかこまれてコツコツ作った器達」と。まさに美流渡の自然に囲まれながら、コツコツと器づくりに勤しんでいる。

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いうまでもなく器達は日々使われることで、新しい光を放つことになる。そう考えると、器を造る仕事は、とてもやりがいのある仕事であるわけだ。たしかに小さな存在ではあるが、それが無いと生活に潤いがなくなってしまうし、心に安らぎが与えられなることもある。これが日常の中の美、その価値であろうか。

では葛西義信の器の美、その魅力とはどんなものであろうか。数点あげておきたい。

まずなんといっても美しくめぐる北国の四季を味わいながら、そこで感受したものを大切に制作していることだ。そして身近なものを素材にしていること。桜、芍薬、葡萄、木苺、カタクリ、梅などを白い肌に図柄として織り込んでいる。 白地はとても質素にみえるが、なかなか品がある。そして自然の中にある色を大切にしながら、色づけしている。またある時は、紅色や鉄絵を添えている。それらが白地によく映えている。

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最後にこれからのことを少し語ってくれた。10月24日から29日まで時計台ギャラリー個展を開くという。

なにより今後も自分のスタイルを壊さずに、北の自然で出会ったものを素材にしながら、生活の中で生かす「器」づくりをしていきたいという。最後に「美流渡のアトリエに、どうぞあそびにきてください」といってくれた。(文責・柴橋)

 

第66回 「サグラダ・ファミリア/ガウディ没後100年・聖堂完成2026年」

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講 師:木下泰男(建築家)

道都大学非常勤講師。北翔大学北方圏学術センター研究員。北海道スペイン協会副会長。

19891991年渡西、建築家J.Maジュジョールの研究
1996年日本建築学会・全国設計競技1等賞+島本賞受賞
1998年世界建築博覧会・奈良TOTO建築トリエンナーレ展2席受賞2002年第6回札幌国際デザイン賞大賞受賞

書籍

『マドリードのカステーリャを知るための60章』共著(明石書店)『スペイン文化読本』共著(丸善出版)

サグラダ・フアミリアの魅力を堪能

サラ・メンバーの建築家木下泰男に「サグラダ・フアミリア」についてレクチャーをお願いした。木下は、日本では数少ない建築家ジュジョールの研究家としても知られており、バルセロナやカタルーニャ地方での調査研究体験を踏まえて、存分にこの聖堂の見方を語ってもらった。よくガウディを深く知るには、カタルーニャの歴史と文化を知ることが大切といわれる。

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木下は、まずその文化構造の源泉から解き明かしてくれた。この地で政治的実権を握ったのがバルセロナ独立伯。その後12世紀になると、バルセロナとアラゴンが手を結び連合王国を形成する。13世紀には、この連合王国は、地中海世界(南イタリア、南ギリシャ、シチリアなど)に植民地を築いた。それが最大の栄光の時代だった。

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残念ながら、新航路の発見以降、次第に政治の中心は、カスティリャに移っていった。ただ米西戦争に敗れ、カスティリャの権威が揺らぎはじめると、カタルーニャが経済的発展をベースにして再び主導権を握りはじめた。と同時に、「モデルニスモ」といわれる運動が進展する。日本では「近代主義」と訳し、フランスやベルギーで開花した、生命性と有機性に富んだ「アール・ヌーヴォ」と同一視する傾向があるが、政治・経済・文化的な広汎にわたる革新運動であり、根っこには反カスティリャ主義と自治精神が深く絡んでいる。私たちは、とかく文化事象を表層から眺めて、それで終わりという傾向に走ってしまいがちだ。やはりどんな文化事象にも、その地で醸成された特有の文化土壌があるものだ。何も研究家にならなくてもいいので、少し事象の奥にあるものを掘り下げることが大切のようだ。

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次に木下は、「サグラダ・フアミリア」を味わう、幾つかの視点を提示してくれた。当日の私のメモから数点でまとめておきたい。「サグラダ・フアミリア」以前に、ガウディは、アフリカのタンジールで仕事をしているが、そこにすでに「塔」「螺旋」のデザインが立ち現れているという。パトロンとなった産業資本家グエル氏の存在が大切であること。建築構造には、波のウェーブなど自然から学んだことが生かされていること。ガウディ自身「レウス覚書」では、「自然には何1つとして単調で画一的なものはない」とのべている。色彩を多用するのも、自然から学んだというわけだ。

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特に建築学的に重要なことは、この地方特有の薄い煉瓦を積み重ねる手法(カタルーニャ・ヴォールト)が応用されていること。これはゴシック建築からつづく伝統的な「ペンデンティブ」pendentive 日本では穹隅(きゅうぐう)と訳している)を意識しているが、それとはやや異なるこの技法は独創的という。また身廊の列柱には、森をイメージして「フルーティング」(縦条溝)が施してあるという。また良く知られているように、逆さ吊り実験をして曲線を編みだしている。このように建築家の眼からみれば、ここには様々な建築技法が織り込まれていることになる。

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さて急ピッチで建設が進行している「サグラダ・フアミリア」。それがいいかどうか、論議がわき起こっている。私は個人的に、この急ピッチ路線に反対である。なぜなら教会(聖堂)の石は、「神の肢体」として存在し、1つ1つを積み上げることで「祈り」の空間が完成するからである。あくまで聖堂は、「神の家」「祈りの家」であるからだ。

またこの聖堂は、ローマ・カトリック教会から「バシリカ」として正式に認定されたことでも世界的話題となった。しかし、この聖堂は、当初からローマ・カトリック教会は絡んでいない。あくまでこの地にあった民間の「聖ヨセフ信心会」が構想したもの。私たちは、ガウディは、この「聖ヨセフ信心会」から委託をうけて建築を始めたことを、忘れてはならないのだ。

木下は、最後にローマ法王がここでミサを行った映像をみせてくれた。たしかにステンドガラスも嵌められ、そこから光が注ぎ壮麗な空間に姿をかえている。木下は、そのことを報じた現地の雑誌記事を紹介してくれた。そこには、「法王が、サグラダ・ファミリアにひざまつき、至福に包まれた。まばゆいばかりのガウディの聖堂の身廊がテレビを通じて世界に配信。法王の御訪問は、世俗主義に対する苦言を呈するものだったが、後味の悪さが残った」とあった。世俗主義とローマ法王(ローマ・カトリック教会)。なかなか難しい問題を孕んでいるようだ。

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この聖堂は、正式は「聖家族贖罪聖堂」という。いままさに完成へ向けて工事が進むなか、私たちはこの「聖家族」に捧げられていること、3つの「門」は、生誕、受難、栄光をシンボライズしていること。トータルでみれば、キリストによるこの世の罪を救う「贖罪」が主題であることを、今一度思い起こすことがとても大切のようだ。(文責・柴橋)

2016年8月 5日 (金)

第65回 震災地大船渡に築いた絆アート

65 2016624日(金)

講 師:原田ミドー(彫刻家)

1963年江別市生まれ。東京造形大学彫刻科卒業2003年~2004年アントニオ・ガウディ建築専門学校修了。

2005年より札幌白石サイクリングロード(現在ココロード)のトンネル内に地域住民とともにモザイクアートを施す。全トンネル完成は2025年予定。2011年より、2015年まで岩手県大船渡市にて復興モニュメント制作。

絆のモニュメント
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第65回は、サラメンバーの原田ミド―に「震災地大船渡に築いた絆アート」と題してレクチャーをお願いした。原田は、当日大船渡から戻ってきたばかりで寝不足のままの状態でレクチャーにのぞんだ。90分間、いかに大震災に向かいあったか、熱をいれて語ってくれた。最初にこれまでの「歩み」を紹介してくれた。

東京造形大学で佐藤忠良に師事した。忠良先生は、「対象をみつめて造形をきわめよ」「彫刻はうけを意識してはだめ」といわれた。ただ忠良先生は、厳しく造形を問い詰めながらも「ジーパン」や「帽子」など現代的感覚を持ち込んでいて、原田はそれに親しみを感じたという。

大学を卒業し、1997年に北海道に戻ってきた。しかし大きな彫刻の仕事ができないことに焦った。その後、北海道文化財団芸術家海外研修事業の助成をうけてバルセローナのガウディ建築学校に留学した。ホアン・ミロと協働制作しているアルテガスさんからは、「彫刻家なら社会との接点を築きながら、公共的な仕事にチャレンジしなければいけない」「芸術家は、街を新しく創造する」といわれた。それが大きな問題提起となった。それが現在、札幌で取り組んでいる「サイクリングロード・トンネル」の仕事や、今回の震災アートへと繋がってきているようだ。

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さて原田は、震災が起こった2011年3月11日のことは忘れられないという。札幌の絵画教室で教えていた。自分の体もゆれ、テレビの画面も揺れた。そして仙台市の災害シーンが飛び込んできた。阪神淡路大震災の時もボランティアで行ったが、今度もすぐに「いなくちゃ」と想ったという。何かに導かれるようにして岩手県大船渡市赤崎町にむかった。現地の歯科医が土地を提供してくれ、さまざまなサポートをしてくれた。その歯科医は、「芸術家が100人いても、本当の芸術家は1人しかいない」「その1人が君だ」といってくれた。利害や採算をこえて、「苦しんでいる人のため」に何かをしてあげたいと考えること。そういう心を持つ原田だからこそ、「その1人が君だ」と宣言してくれたわけだ。

モニュメントを造る場は、海の近くだった。原田がみせてくれた写真には、流れてきた舟がそのまま放置されていた。そんな災害の記憶がまだ残る場で、セメントを練り、タイルを貼ることを始めた。幸運なことにタイルを提供してくれた業者がいた。また全国から来た1000人位の方々が作業を手伝ってくれた。最終的に35トンの材料を用いた。最初は、滑り台を構想したが、次第に変化していった。全体にグラデーションをうまく活用し、生気ある色彩にした。アーチには、バルセローナで見聞した「ガウディのアーチ」も取り込んだ。

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何度か滞在する中で、石巻の学校ではモザイクタイルの授業を行った。その時、1人の男の子と出会った。震災で母を亡くしていた。この子は天国にいる母に向けて詩を作った。みんな苦しみを味わいながら、それでも明日に向かって生きようとしていた。それに心を動かされたという。

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5年3ヶ月かけて、モニュメントが完成した。その間の制作光景をみせてくれた。それをみていて、これは大変な作業だったと感じた。あくまで原田は、他所(よそ)から来た人。だから地元の人とはどこか溝があったようだ。近くにきて作業をみていても、共に手を動かす人は多くはなかったという。

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タイトルを「明日へのラブレター」とつけた。原田には心に決めたことがあるという。「使命感に燃えて」ではなく、むしろ「造形物」が街の復興に少しでも役に立つことを第一にしたという。だから「明日へのラブレター」とつけた。深い言葉だ。「現在」よりも「明日」に託している。それは悲惨な震災を乗り越えて、この街の人々がこのモニュメントの周りに集まり、希望を抱いて「明日の時間」を生きること、そんなことを願ったのであろう。なかなか素敵なネーミングである。とかくモニュメントとなると、死んだ方々の追悼を意識したものになる。大船渡のモニュメントは、それとは違う。過去に向かず、「明日」という時間に向かっているのだ。(文責・柴橋)

2016年8月 3日 (水)

第64回 失われていく札幌の建築を見つめて

64 2016527日(金)

講 師:山下和良(建築家)

1971年札幌生まれ。北海学園大学法学部卒業、北海道建築研究会、通称ホッケン研代表(株)オフィスやました代表取締役学生の頃より札幌の古建築を撮影する。

解体前・解体中・解体後のビフォーアフター撮影をこよなく愛する。記録だけでは満足できなくなり、2010年に北海道建築研究会(ホッケン研)を立ち上げる。特に戦後の素敵な住宅にターゲットを絞り、訪問・取材・撮影を続けている。

古い建築への愛を感じた
 

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建築家山下和良に「失われてゆく札幌の建築を見つめて」と題してレクチャーをお願いした。山下は、学生時代より札幌の古建築と出会い、それを写真に記録してきた。それが高じて、仲間と共に北海道建築研究会を立ち上げ代表となっている。古建築とは「築50年以上」の建築を指すという。50年といえば、まだ「若い建築」であるが、札幌ではそれが種々の理由で取り壊わされているという。その古建築を「元気なうちに」見ておきたいとフィールドワークをしている。それを続けていると、不思議なことに「古建築」がかけがえのない「人」にみえてくるという。

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さてレクチャーは、2部構成になっていた。1部は「失われた建物」、2部は「残った建物」。1部ではまず「エゾライト」といわれた田上義也が設計した「小熊邸」を紹介した。田上義也は、世界的建築家、あの帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの弟子。この小熊邸の主は、北海道帝国大学農学部の教授であった小熊棹(まもる)だった。この建物は、その後北海道銀行が所有したが、老朽化が激しく取り壊す予定だった。それを市民グループが立ちあがり「保存」運動を展開した。現在、この「小熊邸」は、運動の力で移築・保存され藻岩下にある「ろいず」が経営するコーヒー店となっている。

山下は、移築される前に家のある部位を入手した。今回山下は、会場に持参して見せてくれた。フランク・ロイド・ライト風のデザインだった。その後もかなりの貴重な古建築が解体され、この世から姿をけした。

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山下は、順番に写真で紹介してくれた。私にとっても懐かしい建物がたくさんあった。またこんな価値があったのだと気づかされたものもあった。少しその名を挙げてみたい。「旧札幌逓信局」(片山隆三の建築)「旧・拓銀の本店」。「旧・札幌市民会館」。「藤学園キノルド記念館」。最近では「王子サーモン館」(旧北海道ホルスタイン会館)。個人的には、歴史的建造物であったこの「王子サーモン館」の取り壊しが心に残っている。なぜなら札幌市の開発計画により壊され、そこに新しい市民ホールが建てられているからだ。古い価値を壊し、そこに多大な経費を使い新しいものを創る、これが札幌市の標榜する創造都市札幌の実際である。

岩井俊二監督の映画「ラブレター」のシーンに登場したのが小樽の旧・坂(ばん)別邸。炭鉱主であった坂家の別邸として、田上の設計により建設された。残念ながら2007年に焼失した。円山にあった田上の設計といわれる「旧相内邸」は、レストラン「アン・セルジュ」となっていたが姿を消した。山下の話を聞いていて、田上建築が最近まで姿をみせていたことを知った。それが知らない内にどんどん姿を消していることに改めて驚いた次第だ。保存の方法がなかったのか悔やまれる。法律をつくるとか、保存指定をするとか、知恵がほしい。そのためには、市民の中に「建築は人」「生きている空間」という意識が高まる必要があることはいうまでもない。

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 つづけて現在、残されている建築について、山下流の楽しい見方を教えてくれた。アトランダムに紹介しておきたい。デザイナーの栗谷川健一邸は上遠野徹の建築で、エル字形の大きな窓が個性的。八雲町公民館は、田上の建築。春香山の本郷新のアトリエ、これも田上の建築。真駒内青少年会館は、「メタボリズム」を提唱した黒川紀章の建築。札幌パークホテル(旧・三愛ホテル)は、ル・コルビジェの弟子坂倉準三の作品。有田焼のタイルを使用している。北海道銀行本店は、床や内装面もユニークという。札幌にある、外見が威圧的表情をみせる農林中央金庫は、ドイツ・ナチス建築のスタイルをみせているという。こうしてみると、まだまだ残された建築にも優れた作品が多いようだ。
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山下のように「建築を人」としてみる視座は大切と感じた。そしてその建築に宿った時代の思想(イズム)を読み取ることで、新しい出会いと発見があるかもしれない。そのためには、自分の足でまず歩きつつ、建築といい出会いをすることが大切なようだ。

(文責・柴橋)

2016年8月 2日 (火)

第63回 Suomiの大樹 ジャン・シベリウス

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講 師:駒ヶ嶺ゆかり(声楽家・日本シベリウス協会理事)

‘96年館野泉氏音楽監督による「ノルディックライトin Sapporo」に出演し、初めて北欧歌曲に出会う。’98年よりフィンランドに渡り、館野泉氏とマリア・ホロパイネン氏の許で研鑽を積む。

オウルンサロ音楽祭(フィンランド)をはじめ、「シベリウス生誕150年記念」(東京)、「丹波の森国際音楽祭」「北欧音楽祭すわ」など国内外の音楽祭に出演。4年間8回のリサイタルを開催した『シベリウス歌曲全曲演奏会』を完遂。

札幌文化奨励賞、札幌市民芸術大賞、道銀芸術文化奨励賞受賞。

シベリウスの音世界の背後にあるもの

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札幌在住の声楽家・駒ヶ嶺ゆかりに、「suomiの大樹」と題してレクチャーをお願いした。「suomi」とは、フィンランド語では「湿地帯」の意で、さらにフィンランド共和国をあらわしている。「suomiの大樹」とは、音楽家・ジャン・シベリウスのこと。 

シベリウスは、2015年に生誕150年を迎えた。北欧文化と深い繋がりのある北海道。私は、生誕150年に合わせて、シベリウスのことを語ってくれる人を探していた。

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最適の方がいることにきづいた。1998年よりフィンランドに渡り、館野泉とマリア・ホロパイネンの許で研鑽を積み、シベリウスの曲を歌っている駒ヶ嶺ゆかりにお願いした次第だ。

このレクチャーでは、「スオミ」の歴史と文化を踏まえながら、シベリウスの人と音楽世界について、十全に語ってくれた。その全てを短い紙幅では紹介しきれないので、数点に絞ってまとめておきたい。

まずスオミの歴史と文化について。フィンランドは、広大な森と美しい湖の国だ。なんと湖は約19万湖あるという。また建築やデザインの国でもある。アルヴァ・アアルト(建築)、イッタラ(デザイン)、NOKIA(携帯電話)など。いがいだったのが、珈琲、バナナ、ローソクの消費量は世界1という。また教育国で、人々は読書時間をとても大切にしているという。

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よく指摘されるように、フィンランドの歴史・自然とシベリウスの音楽は深い関係がある。これまでフィンランドは、強国に挟まれ、幾多の受難を味わってきた。13世紀から長くスウェーデンの支配下にあった。また一時、ロシアの支配下に入り大公国となった。

政治的独立を達成したのが、1917年のこと。しかし第二次世界大戦では旧・ソ連に敗れ、カレリア地方南部を喪失した。それは日本の北方領土が旧・ソ連に奪われたことと同一の体験となった。シベリウスは、祖国や民族のことを題材にして曲づくりをした。それだけではない。自らの気質もフィンランド音楽と深い縁を結んでいるという。「沈んだハーモニー」「モノトーン」は、「抜きがたい気質」とまでいう。この「沈んだハーモニー」「モノトーン」などは光、風、水などが発する自然の霊力を含んだものであろう。

駒ヶ嶺は、シベリウス家のことを少し紹介してくれた。音楽一家だった。また叔母エヴァリーサは、シベリウスの音楽的才能に気付いてくれた人という。シベリウス自身、叔母のことを「僕の太陽」といった。父方の叔父からは、星座と音楽のことを聴いたという。

またシベリウスは特異な才能があった。子供の頃から音楽を色で感じたという。イ長調は青、ハ長調は赤、へ長調は緑など感受した。

シベリウスは、異国の都市ウィーンで、民族の叙事詩たる「カレワラ叙事詩」と出会う。自分の体内に流れる民族の血を自覚した。そしてこう言い放った。「森羅万象が我々人間に向かって語りかけてくる世界こそ『前衛』そのもの」であり、「カレワラ」こそ、「音楽そのもの」「主題と変奏」があると。

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そこから生まれたのが、初期の合唱付き管弦楽曲「クッレルヴォ」(作品番号7)。ここで「クッレルヴォ」のDVDをかけてくれた。「クッレルヴォ」は、英雄の勇敢と悲劇、さらに自然の中で男女の愛を描いている。駒ヶ嶺は、この作品には「真のフィンランド音楽のたしか目覚め」とシベリウス音楽の「着実な萌芽」があるという。

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私達にとって一番身近な曲は、やはり「フィンランディア」であろうか。この作品は、祖国の歴史を踏まえた「歴史的状景」(作品25)の一部。1899年11月4日の「放送記念日の音楽」の終曲が「フィンランディア」であった。その際の名称は、「フィンランディアは目覚める」。以来、独立した作品として演奏された。この曲のメロディは賛美歌としても歌われている。詞は、「立ち上がれフィンランドよ 誇り高く」となかなか愛国的だ。

全体として、シベリウスの音世界の背後にあるものとは何か、それがいかにシベリウスの音楽を理解する上で大切なことか、知ることができたレクチャーであった。

(文責・柴橋)

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