2018年10月19日 (金)

第87回「上階(じょうかい)のをかし一山本東次郎家の人と芸一」

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講 師=松井由孝(前・帯広百年記念館館長)

1951年帯広生まれ。前・帯広百年記念館館長。現在、同館友の会会長。帯広狂言づくしの会会員。20代から展覧会の企画展示に関わる。 19891月の帯広市民文化ホール柿落し公演、8月の道東初の「お 「びひろ薪能」を事務局として参加。それが縁で、人間国宝の狂言師山本東次郎一門の「狂言づくしの会」を、1991年から 25年間帯広で開催し、芸術新興で、表現者と鑑賞者は両輪であり、すぐれた鑑賞眼を育てるには「いいものを観る」をモットーに活動。浄土真宗 本願寺派の僧侶でもある。

文化を仕掛ける人

 第87回レクチャーは、帯広から松井由孝を迎えた。タイトルは「上階のをかし―山本東次郎家の人と芸―」。やや難しいタイトルとなったが、<上階>とは、幽玄性のある<高次>の、<をかし>とは、品位のある<をかしみ>(笑い)とでもいうべきか。世阿弥の言葉という。山本東次郎とは、大蔵流の狂言師であり、日本の狂言世界において名だたる芸をみせている方だ。

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松井は大きく3つのことに触れてくれた。最初は自己紹介と歩み。40年間にわたり。帯広の地で文化の種を蒔きつづけているが、その難しさと、実現できた時の喜びを語ってくれた。その中で<帯広方式>とでも命名したいシステムがあるという。文化づくりのためには、<セクト>(組織)の枠をこえて汗を出し合うというもの。オーケストラ、オペラ、バレー、美術展においても、協働関係を築いているという。いいものを創るために、その一点において一致する。とても素晴らしいことだ。

そうした活動を通じて、もう1つ大切なことを学んだという。それは何か。松井は、「鑑賞者を育てること」がとても大切だという。それができていないと、文化の華は開かないし、根づいていかないという。

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2つ目に、十勝の文化づくりに関わった10年間の歩みを紹介してくれた。その契機をつくったのが、子供の誕生祝いに、帯広の弘文堂で買った一枚の絵。以来画家の仕事に関心を抱いた。さらに仲間と企画集団「ニュー・ホラーズ」を立ち上げた。<ホラー>とは、<ほらを吹く>こと。アンチ帯広、つまり帯広の外縁にある町に生活するメンバーが軸となった会。<ほら吹き>で終わらせずに、アメリカのロスアンゼルスとの交流展を実現しているから、凄いことだ。

松井は、帯広市の教育委員会に長く勤務し、最後は帯広100年記念館館長で勇退した。その間、文化の足場づくりに専心した。地方で文化を興すことは大変なエネルギーを要するものだ。それを彼は、日々行ってきた。頭が下がるばかりだ。そうした活動の積み上げが、文化ホールや道立美術館のオープンへ、さらに道東で初の薪能の実現につながった。

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3つ目に、四世山本東次郎の芸の魅力を語ってくれた。知らないことを教えられた。狂言には、大蔵流と和泉流の2つがある。これ位は、知識として知っていた。ただ違いとなると皆目見当がつかない。

今回紹介してくれた大蔵流は、世阿弥から、大蔵虎明、さらに式楽へと連なる正統派に属するという。格調、品位、気迫に満ちた芸風を堅く死守した。山本家は、<貴族>風に堕すことなく、特に明治維新という大変動下にあっても、<武家>風を固守した。そこには強い意志が働いていた。東次郎の芸は、「乱れても盛んなるよりは」という言辞に収斂するという。まさに表面的な隆盛に浮かれることなく、流行や甘言を排して、日々の修練を通じて初原の芸に立ち戻れということ。

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このやや時代に反するような固執。芸事における深いものを感じた。伝統芸と一言でいうが、その芸を継承し次の時代に正しく伝えていくためには、指導者の鉄の意志が必要となる。

帯広で、山本家の狂言を何度も開催している。それだけ「剛直」と評されることの多い東次郎の人格と芸に惚れているからであろう。

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最後に、その四世東次郎の作品「月見盲人」(「月見座頭」ともいう)の映像をみせてくれた。こんな物語だ。月の明るい晩、下京に住む盲人が虫の音を聴きに野辺に出た。そこに月見に来た男と出会い、酒を酌み交わすが男は別れ際に盲人と喧嘩に。別人を装ってわざと盲人につきあたり、杖を奪い取って引きまわした。盲人はさびしく帰途に着く。このように笑いはない。むしろ哀しみが潜んでいる。こうした月見や虫の音が籠った幽玄の美。それが東次郎の真髄のようだ。ただ時間が不足し、全体をみることができなかったのが残念だった。(文責・柴橋伴夫)

第86回「書票の魅力」

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講 師=原 滋(書票収集家)

1928年撫順(中国)に生まれる。1945年終戦の玉音放送を新京(長春)できく。1946915日に引揚船で博多に上陸。翌年4月に「新潟高等学校(旧制・官立)入学。1950年に大阪大学工学部(旧制)入学。1953年に北海道電力に入社し、1984年に退社する。一級建築士、民事調停員。

書票の美に関心を抱き収集と研究を開始。1992年に開催された世界書票会議札幌大会実行委員。現在、日本「書票協会北海道支部長として、展覧会を開催するなど、書票普及活動を行っている。


蔵書票に魅了された男

 

第86回レクチャーを、サラ・メンバーでもある原滋にお願いした。タイトルは「書票の魅力」だった。1928年生まれというが、その年齢を感じさせない<気合い>が入ったレクチャーだった。なによりも蔵書票に対する熱い想いが半端ではなかった。

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世の中には、不思議なものにとりつかれた人がたくさんいる。人は、それを「好事家」というかもしれない。この「好事家」という言葉。ただの「余技」を持つ人と想ったら間違いだ。そこに「余技」をこえるものがたくさんあるからだ。ではこえるものとは何か。一言でいえば、人を虜にする魔性とはいわないが、人の心を躍動して止まないものがそこに潜んでいるのだ。

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 では原は蔵書票に、どんな「心の躍動」を感じたのであろうか。それは何かをレクチャーを聴きながら考えてみた。その1つの答えが、こういうものだった。蔵書票は、決して「書物」の飾りではなく、「書物」と同じ位とはいえないが、それに近い価値をもつもの。蔵書票を造った美術家(造形家)の「個性」が迸りでるから価値があるのだ。たしかに蔵書票は、とても小さな「宇宙」にみえるが、まちがいなくその美術家(造形家)のいのちと愛情が宿ったもの。

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蔵書票家は、それを入手し、他の人と交換し、その美を相互に分かち合うことをとても大切にしている。その1人が原滋だった。

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いうまでもなく蔵書票は蔵書家からの依頼により、美術家(多くの場合は版画家)が創作するもの。だから美術家からの、その蔵書家へのメッセージ、つまり返礼(応答)でもある。どんな方法で返礼をしてくれるか、それを蔵書家はじっと待っているわけだ。この様に考えてみると、蔵書票制作は極めてパーソナルな親密な関係があってこそ成立するものだ。

 レクチャーの内容を踏まえて、私が感じたことを手短かにまとめて記しておきたい。


まず日本の蔵書票の歴史である。明治期に来日したエミール・オルリックなる人物がいる。チェコ生まれのエミールは、『明星』(第7号)に西洋蔵書票「エクスブリス」4点を掲載した。これが日本初という。ちなみに「エクスブリス」とは、ラテン語で<蔵書からの一冊>を意味する。

こうして絵と文をいれた図案化したものが、蔵書家の間で好まれていった。どんな絵と文を狭い空間にいれて構成するか、造り手の腕の見せ所となった。創り手には、版画家が多くなった。とすれば蔵書票は、オリジナルな<小さな版画>ともいえるわけだ。私も実際に幾つかの蔵書票を拝見したことがあるが、まさに限定版の版画にみえた。

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さて蔵書票の研究や収集もさかんだという。大学や図書館でもコレクションが所蔵されている。道立図書館にもかなりの数があるという。道内では川元栄一コレクションが有名という。

 いま版画家が蔵書票を制作するケースが多いとのべたが、道内でのその第一人者が大本 靖という。かなりの数を制作している。また原は、武井武雄や平塚昭夫も重要という。平塚昭夫は、1947年に苫小牧市で生まれた。合羽摺りの技法で版画を制作している。2004年に台日蔵書票交流展で特選をうけている。私が知らない名もあった。和の味をみせる敦澤紀恵子、薬袋みゆきなどの女性の名をあげていた。

原は、国際的な蔵書票に関する組織にも関わっている。2013年に世界書票会議札幌大会を開いている。この大会の世話人を原がおこなったこの時に参加者に配られた記念品が平塚昭夫作の蔵書票だった。

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小さな「宇宙」をみせる蔵書票の世界。どうも原のこの蔵書票への偏愛は、まだまだ続くようだ。(文責・柴橋伴夫)

第85回「カメラは写真のない時代に既に存在していた」

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講 師=石崎幹男(写真家)

1949年芦別市高根町生まれ。

個展は「HUMAN LANDSCAPE(88) RECITATIVE-ベルリンの壁」(90) HITO NO SHIMA(98)骨の複眼「澱みの時間軸」(07) など多数。

「テキサスヒューストンフォトフェスタ('89) 「に出品。「札幌雪祭り会場スライドショウ「FRANCE EN TACTES('99)

北海道大学総合博物館企画展として、「分子のかたち」(108)、「疋田豊治ガラス乾板写真」(109)、「北大古生物学の巨人たち」「惑星地球の時空間」 (17) がある。「イメージのロゴス」展 (17)に出品。

東京コピーライターズクラブ新人賞、日本新聞協会賞、電通地域広告賞、札幌ADCグランプ 「リなど多数受賞。本として『PARCO アーバンアート作品集』『背中で見た夢』『北大古生物学の巨人たち』『惑星地球の時間軸』などがある。


写真が絵画的力を持つことを教えてくれた

 

第85回レクチャーは、写真家の石崎幹男にお願いした。タイトルは、「カメラは写真のない時代に既に存在した」。なかなか刺激的なタイトルを掲げてくれた。それを説明するために、写真の歴史から解き明かしてくれた。石崎は、写真の始原を切り拓いてくれたトルボット(タルボットともいう)の名をあげていた。

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このトルボットは、「自然の鉛筆」を発表した。世界で最初の写真集だ。それは「カロタイプ」という写真技法を用いた。ただ露光に1分かかる。もう1つ写真の技法の成立につながったのが、「カメラ・オブスクラ」であった。意味は「暗い部屋」を指している。当時の画家達も、この「カメラ・オブスクラ」を活用していたようだ。ただ像が反転するので鏡が必要となる。

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このような写真成立に際して、科学者はいろいろな実験を反復していたわけだ。

 石崎は、これまで様々な分野で仕事をしてきた。それを写真をみせながら語ってくれた。広告写真の仕事をしていた。世界各地(ニューヨーク、ベルリン、バルセロナなど)を巡り、人間や風景を見詰めてきた。その中では、彼の代表作ともいえるある駅での一枚「kiss」(「再会」ともいう)もある。群衆の中、抱きあう男女。ある種の「決定的瞬間」を捉えていた。

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石崎は「内なる世界」を大切にする。こんな言葉を記している。

「心の内部の世界」にある衝動、感動、嫌悪、好奇心などによって「外側に広がる世界」のなかから特別の対象をみつけだし、カメラは、その対象の一部分を切り取り、記録する。
カメラは、その写真家の眼の決定によってだけ、機能できるものなのである」

このように、自らの「心の内部の世界」に重心を置きながら、眼差しを外へと送りだしている。

また写真のドキュメント性をいかんなく発揮しているのが、「ベルリンの壁」であろうか。当時の世界を支配していた冷戦体制が崩壊する、そんな象徴的事件を無言で証言する「ベルリンの壁」。さらにナチスの残忍な記憶を残す施設など。これらはカメラの記録性、現場性をいかんなく発揮していた。こうした歴史的現場と立ちあうなかで、生と死を見つめる眼を体内に宿したにちがいない。

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 広告写真の仕事で、私も知らなかったこともあった。道内企業や雑誌広告の仕事をしていた。かなり身近なところで仕事をしていた。とすればかなり前から、広告写真を通じて石崎と出会っていたことになる。

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また石崎は、北大の総合博物館とコラボレーションしている。『分子のかたち』『北大古生物の巨人たち』などの写真集もある。この、北大の総合博物館との仕事には、この分野の先駆的仕事をフォローしているナショナルジオグラフィック』への敬愛、そんな意識が反映しているようだ。古生物に宿った時間と出会い、そこから何を感じとること。

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彼は、よく「骨の複眼」という言い方をする。あとから付加された肉を排し、骨のそのもの立ち戻ること。この骨の思想、それを精神の運動の梃子とする。禅の思想から汲みとったものを独自に昇華した。さらに複眼を介在させた。

 さて私が一番、関心をもっているのが、最近の仕事だ。このことを多くの人に知らせたくてこのレクチャーをお願いしたのだった。それは2017年の『イメージのロゴス』展でも出品していた「海」や「空」の「はざま」を捉えた写真だった。

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それは絵画的にいえば、マチエールだけが開示されたような作品だった。「はざま」のもつ永遠という名の時間。「あわい」の中にある「無碍」という空間の漂い。グレーに染まる澄んだ空間。沈思する写真でありながら、実に多くのことを語ってくれた。

夾雑物はなにもない。その何もないことが、いかに芳醇であるか、それを静かに語っていた。光の粒子がマチエールを形成し、写真が絵画的力を持つことを、教えてくれた。

それはどこか俳句的な時間が流れていた。「内なる世界」を見つめる「眼の力」を使いながら、さらにどんな展開をみせるか、楽しみに待ちたいものだ。(文責・柴橋伴夫)

第84回「飛べなかった跳び箱一銅版画~インスタレーションへ」

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講 師=艾沢詳子(美術家)

テーマ=飛べなかった跳び箱一銅版画~インスタレーションへ

1949年夕張郡由仁町生まれ。全国各地で個展を開催。主たるもの に、INAX ギャラリー(東京 1997)、芸術の森インスタレーション・ 有島武郎旧宅(2004)、ギャラリー砂翁&トモス(東京 1994 年 より6)、茶廊法邑(2007)。グループ展も、「現代の版画 1994(松 濤美術館 1994)、「メディテーション真昼の瞑想」(栃木県立美術 1999) HOWARD SCOTT GALLERY(NY 2003) など多数。 バハラット・バーバン国際版画ビエンナーレでグランプリ、北海道文化奨励賞を受賞(2017)


世界の片隅を意識した行為

 

第84回レクチャーを、艾沢詳子にお願いした。現代(いま)という時代に起こっていること、事実の重みや悲惨さなどに眼差しを送りながら制作している美術家の1人だ。

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タイトルは「飛べなかった跳び箱―銅版画からインスタレーションへ―」。はじめこのタイトルを聞いて、どんな話になるかやや見当がつかなかった。最初の「飛べなかった…」に引っかかった。このレクチャーに参加した方もそう感じたにちがいない。ただ話を聞いてみると「なるほど」と分かった。

どうも跳び箱は不得手だったようだ。それが1つの壁となり塞がった。でも絵を描くことで自分を外に出そうとした。後半のタイトルは、夕張の由仁生まれの彼女が、札幌に出て、OLをしながら絵の勉強をし、さらに版画家渋谷栄一と出会うことで、より銅版画に情熱をつぎ込んでいき、さらに空間や場を意識したインスタレーションとへすすんでいったことを示している。つまり、自分の歩みを短くいいあらわしたわけだ。

さて艾沢は、自分にとって生地由仁と夕張はとても大切な場という。父が造林の仕事をしており、幼い時から自然の豊かさを肌で感じた。高校時代は、由仁から夕張を通りながら栗山に通った。私の記憶では、インスタレーションを最初に行った場が夕張だったはずだ。今回のレクチャーでも、映像を添えてそのことに触れていた。銅版画の作品を、青春の思い出が溢れる夕張の場に置いた。さらにかつての炭鉱街の<残像>に想いを乗せた。この野外展示は、「記憶」や「歴史」とも繋がることになり、彼女にとってもとても有意義なものになった。

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ちょうどこの頃、彼女のアトリエの隣に、中森敏夫が主宰するテンポラリー・スペースがあり優れた企画を立てていた。道外から日本のアートシーンで活躍する美術家が多数来廊し個展を開いた。彼女は彼らの仕事を実見し、また話を聞いて大きな刺激を受けた。特にいかなる現代的知見をこめて制作するのか、作品の価値とは何か、いかに自作をプレゼンテーションするかなどを知った。そのことは、大きな益となった。

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これまで様々な場で作品を展示してきた。札幌、東京、ニューヨークなど多数ある。さらに海外での国際コンペに参加し賞もうけている。それを全部紹介することは難しいので印象に残ったものに絞って紹介しておきたい。

まず有島武郎旧邸(2004年)のアートワーク。札幌芸術の森美術館の中にあるこの旧宅。特別の許可をうけて実施した。展覧会名が「夏のオライオン」という。実際には、夏にはほとんど眼にはみえない星。そんな眼にみえないものを意識して制作した。また床を意識しながら人形(ひとかた)像を置いた。とても斬新な試行となった。

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もう1つは、茶廊法邑での個展「My friend」(2017年)。私は、この個展については、短く『美術ペン』に書いた。この時、艾沢は世界の現状に眼をむけた。夥しい難民や被災者の群れ。ティシュペーパーを蝋で固めた。その白いオブジェを難民や被災者とした。今回のレクチャーでも、その実物をもってきてみせてくれたが、まさに<小さな人>だった。一体ずつ手でつくる。全部で2000体。私は、これを「祈りのインスタレーション」と呼んだ。こうして自己意識を、一番弱い人たちに寄り添わせる。その「寄り添い」によって、何ができるのか考えていく。それは、観る人の意識にも降り立ってくる。

いま世界中には、大切なものがどんどん壊れている。また美しいものも廃れてきている。艾沢は、それにささやかながら抗していこうとしている。素材の選び方もとても素直でいい。石膏、蝋、紙などの身近な素材を使い、何かを伝えるために手を動かす。

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作品というものが、どんなに小さくても、他者に何かを伝える力をもつことを信じている。いや一番小さいことが集積していけば、大きな力を持つことを知っているのだ。こうした世界の片隅に起こっている出来事に関係に関与する美術行為。そこに「祈りの聲」をはさみこんでいる。(文責・柴橋伴夫)

第83回「現代絵画における瞬間と永遠」

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講師=伏木田光夫(画家)

1935年浦河生まれ。全道展会員。武蔵野美術大学卒。1969年に渡欧、サロン・ド・トンヌなどに出品、トラブール国際グランプリ(リヨン) 招待作家。個展を東京(文藝春秋画廊計12)や時計台ギャラリー( 50)などで開催。北海道の「秀作美術展「現代美術展」「北海道の美術」 に選抜出品。10年間にわたりグループ「朔」で活動。「伏木田光夫展」(芸術の森美術館1997)は大きな話題を集めた。札幌市民芸術賞 (1999)、道文化賞(2000)を受賞。現在も「魂のカテドラル」 を描くため精力的に制作中。

創造の震源を見つめる画家

 

第83回レクチャーを、画家伏木田光夫にお願いした。タイトルは「現代絵画における瞬間と永遠」。レクチャーをお願いした時、すぐに手紙が届いた。当初私の頭の中では、近作も含めて伏木田の絵画について、想う存分語ってもらうことを考えていたのだが違った。それで必ず自作についても、語ってくれるように再度お願いした。

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手紙には、話の要旨と順番が書かれていた。「それぞれの作品が孕む、絵画や彫刻空間における瞬間と永遠を考察する。画家・彫刻家が創作時に感受したものは何か、それを問う。芸術家の創作の現場、その瞬間に立ちあってみる」とあった。かなり力の入った高度な内容になると予知した。

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どうも伏木田は、優れた作品には、「瞬間と永遠」が宿っていると分析しているようだ。むろんそれにとどまることなく、自作づくりにおいても「瞬間と永遠」が宿っていなければならないという持論も含んでいるわけだ。

 

すでに話の順番が決まっていたので、私はこのレクチャーのための資料(映像)づくりに協力した。話の順番は、こうだった。1.ボッティチェリ「ビーナスの誕生」(ウフィッチ美術館 2.ミケランジェロ「ロンダニーニのピエタ」(ミラノ・スフォルツァ宮殿) 3.クロード・モネ「睡蓮」の一枚 4.モンドリアンの「抽象」に突入する頃の作品 5.「僕の作品」における瞬間と永遠。

 

これに沿って映像を準備した。ただ大切なものが抜けているようにも感じた。ムンクやジャコメティが入っていないことが不思議だった。というのも伏木田と話をしていると、この2人の名が頻繁に出ていたからだ。どうして省いたのか、本当は聞いてみたかった。

実のところ、ここでボッティチェリの「ビーナスの誕生」を取り上げたことがやや不思議だった。レクチャーでの説明によれば、古い壁を破ったこのルネサンス画家には、これまでにない革新性が存したからだという。

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ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」には、未完ではあるが、ミケランジェロの魂が裸形のまま現存しているとみた。また伏木田は、現代の「ピエタ」像を制作しているが、そこにはミケランジェロへの敬愛も含まれているのかもしれない。

ここでモンドリアンを取り上げたこと。それはよく理解できた。私は「樹」の連作や風景から、静物画の仕事を経て、抽象化にむかう過程を示す作品を用意した。「樹」や静物画の習作から、抽象を志向する「コンポジション」へ。この時気づいたのだが、具象から抽象の変化が短期間に起こっていた。小説家がこんなにも短い間に文体や主題を変えたならどんな評価をうけるであろうか。プラス的評価は少ないのではないか。伏木田は、この激変の過程にこそ、モンドリアンの瞬間と永遠」が立ちあらわれているとみた。

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最後に彼の造形世界を数枚の映像で紹介した。画像を『伏木田光夫展 魂のカテドラルを求めて』展(芸術の森美術館1997年)の 図録作品から採った。

抒情性を宿した「夜の詩人」や、「リンゴ」「人形の家」などの初期の作品を紹介した。それは、武蔵野美大時代から浦河時代の作品が彼の原点であると考えたからだ。異色なのが「リンゴ」だった。この作品は、リンゴの芯から視線を放射して描いたもの。他の画家が思考したことがないことに挑んでいた。後半では近作の7つの状景 戦争」「春の使者達」「[愛のピエタ」をみせた。

彼の芸術世界には、多様なものが混在している。実存主義の影響がある。家のこと、父のことが重くのしかかった。画家は、犯罪者たる父の罪を背負っていることに悩んだ。そのためであろうか、人一倍原罪意識が強かった。一方で、愛と性を生の根源とした。

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私は、このレクチャーを聴きながら、自己をありのままさらけ出しながら、常に自らの生命が燃焼する絵を描き続ける人が少なくなったと感じた。人間のスケールが小さくなった。と同時に絵がこじんまりしてきた。

伏木田は、大切なことを伝えていないように感じた。それは何か。創造的行為には「瞬間と永遠」が立ち上がることも確かに大切であるが、生命的燃焼や野生的パッションがない生き方からは、こころを撃つ作品は生まれてこないことを。

全体を通して、画家の仕事とは一体何か、なにをめざして描くのか、生命的燃焼とはどういうことか、改めてそのことを考えさせられた。(文責・柴橋伴夫)

2018年10月18日 (木)

[現代絵画における瞬間と永遠

2018年5月 2日 (水)

第82回 「欧米の博物館から見た―先住民文化の展示」

第82回 2018年2月23日(金)

講 師: 出利葉浩司(北海道博物館学芸員)

1954年福岡市生まれ。北海道博物館学芸員(再任用)。北大文学部卒業。北海道開拓記念館学芸員、学芸副館長をへて2015年4月から現職。北星学園・北海学園非常勤講師、放送大学担当講師(博物館展示論)専門は文化人類学。主要論文に、「博物館と『政治的アイデンティティ』-北海道の地方博物館を例に」「北海道の先住民アイヌは環境とどのようにつきあったのだろうか アイヌの暮らしが私たちに語るもの」(吉田文和ほか編『持続可能な未来のために原子力政策から環境教育、アイヌ文化まで』所収など。

博物館への新しい視座を開示
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 第82回レクチャーは出利葉浩司にお願いした。出利葉浩司は、北海道博物館(旧・道立開拓記念館)に勤務していた経験を踏まえ、さらに欧米の博物館見聞を生かしながら、博物館での展示を巡る現況と課題を語ってもらった。私達は、いつも見る側にいるが、美術館や博物館でどんな風にして展示を構成しているのか、知ることができた。今回、出利葉は、世界的な課題である先住民の権利と現況をどう展示に反映していくかといった、今日的問題について様々な観点から語ってくれた。


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最初に、海外の博物館での、2つの対比的展示を紹介した。デンマーク国立博物館とカナダのグレンボー博物館。2つ並べてみても、はじめ深い差異に気づかなかった。しかし映像や説明をきいてみて、その差異は大きな問題を孕んでいることに気づくことができた。1つの展示は、単に人類の進歩を「年代順」に紹介するのではなく、神話世界から現在までを通史して、そこにある種のメッセージを含ませていく。また他方では、展示の中に、先住民の現況や生活を紹介しながら、一方的な展示スタイルを排除していた。こうした新しい視点を導入しながら、ある場合は、しっかりした歴史観と思想をベースにしながら、展示を現代化しているようだ。

次に博物館の歩みを、速足で紹介してくれた。その長い歴史を一言で括ることは難しいが、より簡略化していえば、はじめは王侯や貴族や権力者が、稀有なもの・高価なものを収集し、それらを独占的に所有し、閉じた空間で「開示」していた。次にキリスト教世界では聖遺物や、神が創造した「自然の産物」と、人間の創造物たる「人工物」、その双方を収集した。さらに大航海時代になり、非欧州世界と非白人を「発見」していく。絶対王政下では、王のコレクションは、政治や外交のツールともなった。彼らが所有する人工物(驚異的な)は、「知の独占」、つまり「世界の所有」を意味することになった。市民革命により、それが音を立てて崩れた。自由と平等の旗により、王の贅沢なコレクションが「公的な財」として市民に公開された。これがいわゆる博物館の始まりというわけだ。
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こうした「閉鎖・独占」から「公開・共有」への動きを辿ってみて、改めて感じるのは、いまは当たり前になっている「公開・共有」の大切さである。「公開・共有」は長い歴史を通じて、まさに市民が獲得したものであるとこと、このことを忘れてはならない。こうしたことをしっかりと踏まえつつ、「自分達の博物館・美術館」という意識をもたねばならないことはいうまでもない。
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もう1つ大きなテーマになっていることがある。大航海時代とその後の欧米諸国による植民地主義により、これまでの人間観や民族観が根元から改変を迫られたことだ。つまり簡単にいえば「世界の認識」が揺らいだわけだ。なぜなら「異文化」「異宗教」が流入し、非キリスト教世界が存在することを知り、と同時に「人間」そのものに対する理解が単一ではなくなったのだ。単一な人間観ではなく、白人、黒人、先住民、アジア人などを包括する人間観が求められた。
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実際に、博物館のあり方や展示内容に対して、1970年代から先住民からのクレームの聲があがった。さらに1980年代には、展示内容そのものにも「意義申し立て」が起こった。あの有名な大英博物館でも、それが起こったという。アマゾン奥地に住む民族を紹介したが、「伝統的生活」だけを紹介しているが、「生存闘争」について触れていないと、抗議の声があがったという。さらにスポンサー企業と展示内容の関係も問われることもあるという。こうした抗議や異議ありの動向をうけて、展示の際には先住民達との「協働」が一般化してきているという。

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レクチャーが終わってからも、参加者からアイヌの方々の人骨返還問題について質問がでていた。人骨返還の問題を解決していくためには、人類学の在り処が問われると同時に、これからは「死者の人格」という観点も必要になるようだ。

こうして現代社会においては、どんな国においても、民族との「共生思想」に基づいた博物館のあり方がもとめられているわけだ。(文責・柴橋)

2018年5月 1日 (火)

第81回 「手仕事と場仕事」

第81回 2018年1月26日(金)

講 師: 藤沢レオ(金属工芸家・彫刻家)

1974年北海道虻田町(洞爺湖町)生まれ。道都大学美術学部卒業、現在同大学非常勤講師(金工)。卒業後ニセコ町ラム工房にて澤田正文氏に師事。1999年樽前artyを発足し、2014年NPO法人化。2016年には帯広美術館、リアス・アーク美術館(宮城県気仙沼)、玄玄天(福島県いわき)などで作品発表。樽前arty+では、地元苫小牧をフィールドに展示会企画。学校での体験講座、行政、企業などとの協働などアートを触媒に社会と関わる。




感性を蘇生させるアートワーク
 

第81回レクチャーは、虻田町生まれの彫刻家藤沢レオにお願いした。藤沢は、道都大学美術学部デザイン学科を卒業後、「ラム工房」の澤田正文氏に師事した。その後独立し、「工房LEO」さらに「樽前arty+」を設立して、現在に至っている。

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藤沢は、これまで主として鉄を素材にして作品づくりをしているが、彫刻作品の「概念」をこえて、より空間や時間を意識した作品づくりに挑んでいる。工芸的アートワークも多数ある。ネームプレートやショップの看板デザイン、鉄と木を組みわあせた家具や照明器具も制作している。
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特に地元(苫小牧、樽前、輪西、飛生など)をとても大切にしてアート活動を展開している。具体的にはオープン参加型の「樽前arty 」を主宰し、「飛生アートコミュニティー」でのアートイベントや北広島での企画展「鉄 強さと優しさの間で」(北広島市芸術文化ホール)などに参加し、茶廊法邑(札幌)や東京での個展開催や、苫小牧市美術館や芸術の森美術館などの公的美術館での展示も多数ある。
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 今回のレクチャーで、映像で紹介してくれた中で、印象ふかく感じたのは、自ら作品制作をプレゼンテーションしながら、地元の小学校などにアート作品を設置していることだった。「待つ」のではなく、自らが前に出て、自分のアート作品の魅力と設置の意義をアッピールする。そして学校側の要望を組みいれながら、恒久的な展示作品を完成していく。仲介業者を介在させることとなく、直接的に話を進めていくわけだ。学校に設置された作品。子供達は成長しても、どこかでそのアート作品を記憶し、自分の思い出の中に組み込まれていく。それはとても素敵なことだ、と想い至った。

また斬新なことにも取り組んでいる。スケートリンクの下に、画用紙で雪の結晶や動物の形をつくり、埋めていく。子供達は滑りながら、足元に広がる絵図を愉しむという試行だ。
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さらに藤沢は、苫小牧市美術館と協力して、地元の学校への「出前授業」にも積極的に取り組んでいる。この出前授業は、子供の感性や創造性を育んでいる。これはとても意義あるものといえる。つまりアートが、閉じられた空間でもある美術館や画廊から離れて、日常の時間空間の中から生まれることを、教えてもいることになる。
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共に手を動かし、作品を生み出す喜びは、何にも増して価値のあることだ。そ
のために学校側や美術館側と、事前の打ち合わせをしながら、1つ1つ積み上げていくこの行為。それを一回性で終わらせることなく、さらに継続し、発展させる。これはなかなかできるものではない。どうも藤沢には、「プロデューサー的才能」もあるようだ。いや、それ以上に、アートを身近なものにしたい、子供達の喜々とした顔をみたい、さらに地元を元気にしたいという、そこには、そんな意識も働いているに違いない、と強く感じた。

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 さて藤沢の作品の魅力について、少し語っておきたい。

藤沢の代表作に水糸を使ったインスタレーションがある。作品はこんな感じだ。水糸を天上から垂らし、その先端に玉をつけて、それを無数に連鎖する。その場の空気に反応して、振り子の原理で糸はゆれていく。これは何をしめしているのであろうか。かなりミニマルな行為の集積だが、揺れることで、見えない風や空気を感じることになる。きわめて静かに、きわめてさりげなく、身と心で何かを感じることを、企図しているようだ。

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 多面的な活動を展開する藤沢レオ。ライオン(レオ)のように、つまり獣的ではなく、むしろ素材をいかしながら、不可視な「気配」や「空気感」を大切にするアート作家。今後も、その感性を現代的に飛翔させてほしいものだ。さらに持ち前の先進的思考を燃えたたせながら、新しい展開も期待したい。(文責・柴橋)

2018年1月26日 (金)

第80回 2017年11月24日(金)

講 師: 我妻緑巣(書家)

1934年室蘭生まれ。渡辺緑邦に師事。これまで北海道書道展、日展、毎日書道展、創玄展を主舞台として作品を発表。近年は「我妻緑巣」展(94,99,2004,2014年)を開き、「老子」などに挑んでいる。『北海道の「書」20人の世界』道立近代美術館、91年、「北海道の書」展道立近代美術館03年に出品。北海道書道連盟理事長03年、札幌芸術賞05年受賞。2015年には「ふるさと夕張」展(夕張市清水沢地区公民館)を開催し話題を集めた。

書芸術への熱い想い
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第80回レクチャーは、書家我妻緑巣(札幌在住)にお願いした。我妻は、北の地に根をはり、近代詩文書の世界において、金子鷗亭、中野北溟らに続いて、独自なフィールドを切り拓いている。北の書人の第一人者だ。レクチャーをお願いした時、「文房四宝のことを話したい」といわれていた。自分にとり、<何をかくか><どうかくか>も大事だが、墨、筆、硯、紙がいかに<至高な存在>であるか、それが「書のいのち、作品の格」を決めるものであるか、力をいれて語ってくれた。我妻は、そのことを示すために、レクチャーの壁に、「文房四宝」の書字を掲げてくれた。
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またかなり高価な、墨、筆、硯などを、各自が手にとってみるように配慮してくれた。そしてこう言い放った。「いいものを使え」と。この言葉を聞きながら、こう感じた。書業を極めるためには、財を惜しまず、いい道具と出会えと。芸術と道具。道具は手段に過ぎないとみる人もい。しかし特の書芸術においては、生命を賭けた仕事を支える重要なパートナー、いやそれ以上の、創造力と生命力の源なのなのである。「いいものを使え」、短いが長年にわたり「書」を追究してきた書家らしい含蓄ある言葉だった。また我妻は、二〇一〇年に西安の地を訪れているが、その実体験から、中国の碑文、その本物(オリジナル)を自分の足と眼で確かめることの重要性に言及した。

少し、分からないことがあったので、にわか勉強をした。筆の始まりは、一般的には秦の始皇帝(約2300年前)の時代に遡及するという。秦の時代に、蒙恬(もうてん)なる将軍が、枯木を管(じく)とし、鹿毛を柱(しん)に、羊毛を被(おおい)として作った。その筆を始皇帝に献上したのがはじまりという。一方日本における最古の筆は、奈良正倉院に所蔵されている「天平筆」「雀頭筆」という。硯もまた長い歴史を刻んでいる。我妻は、「端渓(たんけい)」の硯(すずり)は最高という。しかし「文房四宝」の質も、政治社会の変動に左右されているという。中国では文革以後、質の悪い藁を使うことで紙の質が随分低下してきているという。
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今回のレクチャーで、私は、我妻の境涯に少し触れることができた。我妻の書は、早くに両親を亡くしてこともあり、いかに「立身」するかということと、深く絡んでいたようだ。室蘭に生まれたが、両親の死去により、縁戚の世話になり夕張へ。その後札幌に出て、生涯の師となる渡辺緑邦に師事した。師からは3回破門されたというが、師から「緑」を頂き「緑巣」とした。こうして我妻にとって書は、生きることと不可分な関係を結んだ。だからであろうか。我妻は、宮澤賢治の詩を好んで題材にしている。代表作「雨ニモマケズ」や「ふきの花でいっぱいだ」において、筆にいまここに自分が生きていることの感慨(喜び)をのせている。まさに書世界の中で、自分探しを行い、書が彼を支えたといえる。それだけではない。オリジナルな書法確立を目指して研鑽を積んでいる。そしてなによりも、1つ1つの筆触に現代的感覚を漲らせ、紙背に鮮烈な美を宿らすこと目指している。 
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話の後半では、主として80歳を迎えて「老子」に挑んだ展覧会の作品をラッシュでみせてくれたが、現代語訳を素材にしながら、新しい自分探しをしているのが分かった。特に「一」の力作には、闇を切り裂く生命力が漲っていた。まさに墨、筆、紙、硯の力を借りながら、古い自分を脱ぎ捨てていく、求心的な意志力を熱く感受した。

最後にみせてくれた映像が楽しかった。席をうめた我妻さんの「生徒さん」も、大感激だった。映しだされたのは、若き日の我妻さん。一斉に「若い!」の声があがった。書友(仲間)が我妻宅へ集まり、壁に貼った紙(?)に交互に書を書いていた。女性達は、背中に子供をおんぶして、喜々として筆を動かしていた。こんな風に競いあいながら書に熱をあげる姿。とても微笑ましく、そして素晴らしいと感じた。映像の中の我妻の顔。柔和な表情はいまと同じであった。
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 人生という回路では、我妻は老成の峠をこえた。しかし芸術には、永遠に終わりはない。さらに大きな峠をこえて、新天地を切り拓いてほしいものだ。

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(文責・柴橋)

第79回 2017年10月27日(金)

講 師: 小杉恵(ピアニスト)

岩内町生まれ。北海道教育大学札幌校芸術文化課程音楽コース卒業。1995年札幌市民芸術祭新人音楽界に出演し、札幌市民芸術祭大賞を受賞。ハイメスコンクール第二位受賞後、ハンガリー国立リスト音楽院にて研鑽を積む。帰国後は、国内外でソロや室内楽など、多くのコンサートに出演。ピアノを故若林千恵子、高島真知子、薄井豊美、谷本聡子、故K.ゼンプレーニ各氏に、室内楽をJ.デーヴィッチ氏に師事。現在札幌大谷大学、札幌藤女子大学、札幌国際大学にて非常勤講師を務める。日本ショパン協会北海道支部、ハイメスアーティスト、札幌音楽家協議会、「Zongoraの会」「2000番の会」各会員。

リストの多面性を知った一夜

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第79回レクチャーは、ピアニストの小杉恵にお願いした。小杉は、ハンガリーのリスト音楽院に留学し、研鑽を積んだことがあり、演奏会でもリストの曲を取り上げている。そんな経験を生かして、「ピアノの魔術師」と呼ばれたリストの「人となり」と音楽性の魅力を存分に語ってくれた。日本人には、リスト音楽を愛する人が多いが、その実像について詳しく知ることが少ない中、とてもいい機会となった。

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リストは神童といわれ、9歳で演奏を開いたという。その才能が評価され、かなり多額な奨学金の給付をうけ音楽の都ウィーンへいく。そこでツェル二ーに師事している。

小杉は、リストには、「4つの顔」があるという。作曲家、演奏家、教育者、聖職者。特に演奏者としては、世にいわれるように超絶技巧を駆使した演奏は、「ピアノのパガニーニ」とまでいわれるほどだ。技巧を支えたのが大きな手であった。小杉は、手の大きなピアニスト達をランク付けしながら紹介してくれたが、上位に位置する。「指が5本ついている手が二つあると思うな。身体から10本の指が生えていると思え」といったという。
リストの手(石膏複製)をみんなにみせてくれたが、自分の手と重ねてみても、たしかにおおきかった。
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手の技巧を駆使した演奏は、特にパリの社交界で人気をうけ、気絶する女性も出たほどだという。それが戯画化されている。
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私は話を聞いていて、新しいリスト像を得ることができた。それは教育者としての存在の大きさだった。父の死により、生活のためピアノ教師として活動した。その場は、パリ、ジュネーブ、ワイマール、ブタペスト、ローマと広範囲だ。生徒は、有名無名を問わず、1000人を超えるという。その第一人者が、ハンス・フォン・ビューローである。同時代人の音楽家には、ベルリオーズ、パガニーニ、メンデルスゾーン、ショパン、シューマンらがいる。リストは、彼らから音楽的にも大いに影響を受け、また彼等の曲をピアノ用に編曲し今日に伝えている。それは、オペラ、歌曲、オーケストラ曲など80曲にのぼるという。その中には、ベルディのオペラ『リゴレット』の弦楽四重奏化、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」などもある。こうした編曲の仕事は、大きな価値をもつようだ。

 私的な面と音楽史におけるリスト。それを語る上で、忘れてならないのが、恋とワーグナーとの関係だ。マリー・ダグー伯爵夫人(作家でもある)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃れる、約10年間にわたり生活を共にし、3人の子供が生まれた。
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その1人が、リヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。そんなことで、ワーグナーとは縁戚を結んだ。リストの死も、ワーグナー絡みだった。1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後、慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬されたという。小杉は、バイロイトにある墓廟を紹介してくれた。華麗な演奏と波乱に満ちた人生を送ったリストだが、それとは対比的な清楚な空間だった。その対比が興味深かった。
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 小杉は、最後に自身がリストの曲を演奏した映像をみせてくれた。堂々として、ダイナミックなリストの音だった。やはり実際の音はいい。みんなも喜んでいた。時間の関係で、聖職者の道をどう歩んだか、また晩年の仕事(「巡礼の年」など)について、語ってもらうことができなかった。またの機会をまちたい。
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サラのレクチャーとしても、こうした名音楽家について学ぶプログラムを考えていきたい。小杉の、今後の演奏活動に大いに期待したい。


(文責・柴橋)

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