2012年1月 9日 (月)

「ドイツ表現主義の諸相」

「ドイツ表現主義の諸相」-開催日 20111128日(金)-

講師

阿部 和夫(ドイツ文学)

1967年増毛生まれ。北海道大学文学研究科(西洋文学専攻)博士課程単位取得退学。ミュンヒェン大学留学後、現在酪農学園大学、北海道医療大学非常勤講師。ドイツ文学史、近現代ドイツ文学を専門領域とする

■会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

■受講者35


ドイツ表現主義の相貌に新しい光を注いだ。

レクチャーのタイトルは、「1910年代ドイツにおける表現主義運動」だった。阿部和夫は自らのドイツ留学(1997―98年)の体験や見聞を披露してくれながら、「ドイツ表現主義的なもの」との出会いに踏まえつつ、新しい資料・文献などを読解しながら、1910年代のドイツにおける表現主義運動の諸相を考察してくれた。運動の基点となっている「橋」や「青騎士」のグループは、フランスの野獣派の概念を移植し、それを発展させたものという。こう断言している。表現主義という名辞は、批評家・画商らが新芸術の宣言のために、印象派に対峙して創生したという。

Abe01

さて阿部は、留学中にミュンヘン市内にある幾つかの美術館に足を運んだ。市立ギャラリー「レンバッハハウス」や「ノイエ・ピナコテーク」であった。両方の美術館で、「青騎士」(デア・ブラウエ・ライタア)の作品群と出会った。展示されていた作品群を鑑賞して、阿部は、ある種の「違和」を感じていたという。「違和」とは、同時代にオーストリアで開花していた、ウィーン世紀末(G・クリムトらの分離派)との差異性であった。たしかにドイツ表現主義にも、ウィーン世紀末と同質な「物質文明への批判」精神や「生命への賛歌」、あるいは「退廃感」が脈動しているが、ただそれとは異質なものを見出していた。

Abe02     Abe03

ではその「差異性」とはなんであろうか。なぜ「差異」が生じていたのであろうか。阿部は、そのことをこのように考察する。「青騎士」やその次に続く「橋」などのグループらのドイツ表現主義の画家には、世紀末の画家達が描いた空間に漂っていた「エロス」「血生臭さ」「退廃感」とは違う、ある意味で能動的な「前向きなエネルギー」が基因していると。阿部は、それがどういうものであるかを、より実証的に分析してくれた。ドイツ文学研究者たる阿部は、主要な原典を抑えつつ、卓越した造形運動を展開したこの運動の革新性の背後には、ドイツの後進的政治状況が複雑に絡らんだいたとみる。植民地獲得や戦争への加担を肯定する「血の匂い」さえ嗅ぎ取っている。阿部は、ノミの市で入手した1911年発行の古いジャーナル誌「Simplicissimus」(シンプリチシムス)を紹介してくれた。女神(ゲルマニア)が、聖職者、騎士に凌辱されているという、寓意性の強い図が描かれていた。この図像は、女神(ゲルマニア)が悲劇的凌辱を受け、危機的な状況が市民もひしひしと感じていることを象徴化している。まさにそんな危機的閉塞状況を突破しなければならないという状況の中で、表現主義の画家達は、まさに生きて、描いていたわけだ。

Abe04

さらに阿部は、詩人ゲオルク・ハイムの日記(1911年)や文学者トーマス・マンの戦争擁護論(1914年)などを腑分けしながら、そこに脈動する「革命・戦争を待望する風潮」「ナショナリズムを賛美の声」も聞き取っている。トーマス・マンは、なんと戦争に「浄化」「解放」「希望」を仮託し、戦場で亡くなった画家マルクは、戦場で綴った『戦争という煉獄の炎の中で』(1915年、『嵐』掲載は1916年)において、「よきものだけが残るのだ、中身が深く、真実なるものだけが。それらは戦争の煉獄の炎によって清められ、照らされつつ進むのである。」と記しているほどだ。

Abe06

このように阿部は、レクチャー全体を通じて、「表現主義とは何か」と問いつつ、レンジを広げて、同時代の文化現象・運動と対比しながら、それがドイツ的な特異な状況が深く絡んでいることを開示してくれた。とすれば私たちは、表現主義を、「青騎士」「橋」などの運動などを、内心の表出に伴う色や形による視覚的な革命、さらにカンディンスキーにつながる抽象芸術への橋渡し的存在という風に、一面的な視座で捉えていたのかもしれない。これらの運動は、確かに物質文明の謳歌により、藝術において喪失した人間性の回復や「精神的なもの」を取り戻そうとする側面もあるが、忘れてならないのはそこにナショナリズムや戦争を賛美する時代の声と「硝煙まじりの血の匂い」がすることだ。

Abe05_2

最後に阿部は、ドイツ表現主義の中に、「ドイツ的なもの」「ゲルマン的なもの」が潜在化しているという。個人的には、この視点をもう少しの展開してほしかった。阿部の言葉を借りていえば、そこにはドイツ的の祖先たる古代ゲルマン人が信仰していた多神教の世界とどこかで繋がってもいるという。(柴橋)

Abe07

2011年11月22日 (火)

「雫を聴くー作品の背景を語る」

「雫を聴くー作品の背景を語る」-開催日20111028日(金)-

講師

佐々木秀明(美術家)

1958年東京生まれ。1982年筑波大学芸術専門学群卒。札幌、東京、パリなどで個展。青森、ルレオ(スウェーデン)、新潟などで滞在制作。2011年夏、釧路芸術館にて大規模展。ボックスアートに始まり、94年から「雫を聴く」のシリーズで波紋の投影と微かな水滴の音による静謐で幻想的なインスタレーションを手がける。光と闇、空間に満ちた気配や記憶やイメージを喚起する試みをツ続けている。

  Hideaki01_8

■会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

■受講者35名


凛とした個性を感じたレクチャー

 Hideaki05_6

2011年に、釧路芸術館で開催した展覧会で注目を浴びた美術家佐々木秀明を迎えた。レクチャーに合せて、ト・オン・カフェでは佐々木秀明の個展を開催してもらった。

レクチャーは、こんな風に進んだ。最初に敬愛する先生の横顔に触れながら筑波大学(芸術専門学群)時代の学生時代(1970年代)のことを語り、そして仲間と共同制作した空間芸術作品についても言及してくれた。次に今回のレクチャータイトルともなっている、「雫を聴く」に関わる「作品が誕生する制作の軌跡」について短く触れてくれた。

Hideaki02_5

私にとって冒頭の先生の横顔は、とても興味深かった。佐々木は、国内だけでなく、これまでもフランスやスウェーデンなどでも作品を発表しており、また映像作家山田勇男の映画では、美術監督を担当し、2002年には北方都市会議INあおもりで、レジデンス(現地滞在)をしながら安藤忠雄設計の建築空間と向かい合った。写真もなかなかな腕前。そして金属彫刻やボックスアートでも個性的な作風をみせている。多芸な人。そしてアートを総合的に捉える自由な視座は、どうも筑波大学で学んだことが、「知的な養分」となっているようだ。たしかに個性的な研究家・美術家が勢ぞろい。芸術学・デザイン史の阿部公正。写真の大辻清司。メディアアートや光アートの先駆者山口勝弘。そしてバックミンスター・フラーの影響からT&Cシリーズを手がけた金属彫刻の篠田守男など。

次第に空間への関心を抱いた。そこには、日本でも人気の高いジェームズ・タレルやサーリネンなどがいた。この時、ジェームズ・タレルの作品をみせてくれたが、それは日本(四国・直島美術館など)で知られた作品傾向ではなかった。タレルは、大学では知覚心理学を専攻しており、アートの世界に知覚と心理学を持ち込んでいる。ほとんどランドアート。壮大な作品でライフワークとなっている『ローデン・クレーター』。アリゾナ州にある約40万年前にできたクレーター噴火口)。なんとタレルは、そのクレーターの所有者を説得して購入し、1979年から工事を開始。地下トンネルを掘り、最後は、クレーターの底から空を見るプランという。

Hideaki04_5

さて佐々木は、学生時代の写真をみせてくれたが、それをみてビックリした。風貌が篠田守男にそっくりだった。大学時には、舞踏の山海塾、田中泯などの身体表現とも出会っている。

佐々木は、光、音、ワイヤーや金属、写真メディアなどを総合的に駆使して、知覚的な新しい環境空間を構築している。そんな佐々木の、創造の原風景には豊かな個性をふんぷんと振りまいた、教授達の教示や彼らが実制作した「作品」が大きな刺激を与えていると思った。既成の概念を越えてアートの熱を燃やした70年代、それは絵画や彫刻という中心軸が外れて、外延へと拡散された時代だった。そこから自己の表現体を捜しもとめた。それがたち現れてきたのが、大学時に仲間と制作した農業用シートやヘリウム風船を用いた「空間劇場1979のパフォーマンス」だった。自ら「表現の鍵となった体験」だったという。それは空間の喚起力が、凄いパワーを内在することを実体験し、それが基点となり、今度は、ミニマルな「箱」の中にオブジェを入れ、もう1つの空間を築くボックスアートへ繋がっていった。

Hideaki06_5

私自身が知らなかった仕事があった。道内で活躍する「劇団風の子」舞台美術を担当していた。なかなかオリジナリティがあって面白かった。また札幌のレストランで、ワインボトルを使った光照明を制作していた。このレストランには、まだその作品が設置されているという。

では佐々木秀明の作品の魅力とは、なんだろうか。それは一言で述べることは難しいが、はやり「空間の喚起力」を主題にしていることではないだろうか。それを総合化しようと企図していることではないだろうか。さらにいえることは、光、水、音などをしなやかに作品の中に取り込み、知覚(観る、触る、聴く)することの歓びや悦楽を、またある時は、沈黙の奥にひそんでいるあるべき音や光を発見することではないだろうか。

こんな逸話を話してくれた。山を歩き、沢を巡りの変化に美を感じ、また自分の畑で作物づくりをしていて、葉などにおりた朝露の結晶の美しさは、すばらしいと。この逸話は、「空間の喚起力」とは、決して難しいこと、哲学(美学)的なことではなく、むしろ日常のさりげない時間や、自然の営みの中にこそ、存するものであるといいたいようだ。

Hideaki03_4

最後に、釧路で開催された「共振芸術空間2011 佐々木秀明展+アート5」について、時間の関係で、そのコラボレーショーンをラッシュで見せてくれた。多くの人が、終わったあともギャラリーに展示された作品を鑑賞してくれた。漏斗(ろうと)のその真下に、小さなあかりを取り付けた透明な器。そこに水滴が落ちていた。幻燈のような光の揺らぎ。それは至福な時間へと誘ってくれているようだ。レクチャーを聴きながら、作品を同時に鑑賞する、こうした試行は、大切なことのようだ。(文責・柴橋伴夫)

2011年10月19日 (水)

「書と私」(現場制作とレクチャー)  

「書と私」(現場制作とレクチャー)      -開催日 2011930日(金)-

講師

岡田 大岬(彫刻家) 

1945年札幌市生まれ。本名、弘徳。札幌北校(書道部)・北大法学部卒業。岬土社代表。独立書人団会友。北海道書人展審査員、北大総合博物館資料部研究員。北大遠友学舎「書」の講座講師10年連続個展を「遠友学舎」で開催。2010年6月社中展・「岬土社書展」(ギャラリーエッセ)。月刊個人誌「独住」発行。

■会場 札幌市市民活動プラザ星園 札幌市中央区南8条西2丁目

■受講者40


書の奥義に触れた

 サラメンバーの岡田大岬が登場してくれた。エジプト(カイロ)旅行から帰ったばかりで、髭が伸び少し痩せていた。書を実際に書くため、場をかえ近くにある市民活動プラザ星園の一室を借りた。タイトルは「書と私」。はじめに「書とは何か」「人生を決定した書家との出会い」などについて語ってくれた。その後は、会場にシートを敷いて存分に書いてもらった。

 Taiko01

 Taiko02 

 冒頭に、「書道ではなく、あえて書といいたい。私は書を大切にしている。また書を造形的に捉えている。」と書論を提示してくれた。さらに「墨の黒さ、紙の白さに、魅了されている。黒と白こそが、書の美である。」「書の作品に風韻が香ること、つまり品位と格調が宿る、そんな引き込まれる書を創造したい」と。また線と面の違いを力説し、面を重んじる墨象の仕事とはちがって、あくまで線そのもの意識していると語ってくれた。さらにこんな言説を披露した。「まず臨書が第一義だ。そこから創作という地平が生まれてくる。そして創作とは、その人から自ずと滲みでてくるもの、そんな根源的なものだ」と、書の奥義(基本)を示してくれた。

 

 Taiko03

最初の習いは、父からという。強く楷書の大切さを教わった。小3より、若き石川玉舟に師事。この頃は、基本技術(職人的な)の習得を目指したという。札幌北高(書道部に入部)から、北大法学部へ。在学中に一生を左右する出来事があった。東京・高円寺に住む、「日本一の書家」と敬愛する桑原翠邦(帯広出身)を尋ねた。無謀にも連絡なしのまま、近くから電話をして「お会いたい」と切り出した。桑原は、「すぐに来なさい」の声で迎えてくれた。手厚く処遇してくれ、端整な姿勢や言葉のはしはしから、書人としての崇高さに心うたれた。その後司法試験直前という状況下で、ちょうど札幌パークホテルに滞在していた桑原と出会った。それが運命を決定した。急遽、「人生の路」をチェンジした。中学校時は、「新聞記者」を、高校時には、「法律家」を目指していたが、そんな方向から離れむしろ茨のはえた、未知なる「書の道」を歩み始めた。岡田には、ひそかに私淑する師がいるという。この時は、山口子羊、石田栖湖、井上有一らの名を挙げていた。

Taiko04

19歳で北海道書道展に入選し、さらに20代前半、最年少で北海道臨書会展の会員に推挙された。

多くの揮毫(北の誉酒造、大友亀太郎の碑文など)も手がけている。また市内で教場も開いている。今回は、生徒さんも多く参加してくれた。現在、北大遠友学舎で連続個展に挑んでいる。

30代はじめに、小川東洲と出会い、書の芸術性、前衛性にみちた自由な精神から感銘をうけた。稽古をみせてもらい、身体全体を使って書くことの大切を学び、なにより厳しく「芸術性を養え」といわれた。その後『北海書人』の編集主幹も勤め、現在も『書現』で、「漢字のはなし」を長く連載し、『美術ペン』には、北の書人について論考を展開している。

 

 さて後半は、参加者から書いてもらいたい字を頂戴しながら、筆を動かした。篆書体の「飲」からスターし、動きのある「遠」へ。はじめはまだ助走路を慣らしている感じだったが、次第に入魂の境地になってきた。脇でみていても、身体が軽くなって自在化しているのが、読み取れた。手で字を書いているのではなく、何か別なものに動かされて書いているとも感じた。だが終始、線を大切にしながら、腕を軸にして字を書こうとしていたのが読み取れた。最後に数人の参加者にも、筆をもって自由に書いてもらった。その時の表情がとてもよかった。

 Taiko07

  レクチャーの中で、岡田は最高の書には、「ぼくとつ」の良さ、つまり素朴な「拙の思想」が胚胎していると述べていた。画家熊谷守一の書にも、それが表出しているという。それは全ての芸術にもいえることかもしれない。では岡田の精神の骨格になっているものとは何だろうか。レクチャーを聴きながら、こう理解した。それは虚を排し、精神の純朴(つまりは拙の立場、あるいは無心の境地)に根ざした創造への意思ではないかとおもった。すでに書と50年にわたって付き合ってきた岡田。それでも決意を新たにして、「自分らしさ、人間性が滲んだ作品」を残したいという。とすれば芸術(書)の世界はあまりに深く、「芸術(書)の青春期」から卒業して、ようやく壮年期に向かっているのかもしれない。

(文責柴橋伴夫)

Taiko06_2

Taiko05

Taiko08

「アートによる炭鉱の遺産/ドイツ・空知」

「アートによる炭鉱(やま)の遺産(きおく)/ドイツ・空知」    -開催日 2010128日(金)-

講師

吉岡 宏高(NPO炭鉱の記憶推進事業団)

1963年生まれ。三笠市幌内出身。NPO炭鉱の記憶推進事業団理事長。札幌国際大学観光学部教授。まちづくりコーディネーターとして道内各地の地域再生に取り組んでいる。

■会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

受講者35

「アートとしての

炭鉱

(

やま

)

の可能性を学んだ」

いま話題の人吉岡宏高を迎えた。NPO法人「炭鉱の記憶推進事業団」(2007年設立)を立ちあげ、各地で炭鉱(やま)の遺産(きおく)の大切さを啓蒙し、様々な計画を実行している。今回も函館から、直で会場に来てくれた。少し風邪気味というが、実に熱の入った講話であった。沢山のスライドをおりまぜながら、いま私たちが、北海道を築いた基幹産業であった炭鉱遺産といかに向かいあうべきか、その大切さを語ってくれた。

Yoshioka01

三笠市幌内出身というから、幼い時から炭鉱遺産と共に生活をしてきたことになる。出生地の自然、歴史、風土、文化がみずからの「精神の骨格」となるとすれば、まさに吉岡は、炭鉱の再生の路を切り開く任務を託されていたことになる。炭鉱というと、どうしても「暗さ」が、先行してしまう。また廃れていくものを、ただ愛惜や郷愁の対象として眺めてしまうことがおおい。吉岡は、「炭鉱は暗くない」と何度も強調していた。ではどうすれば炭鉱は明るくなるのであろうか、その具体

的を示してくれた。

 Yoshioka02

先進的なドイツの取り組みを紹介してくれた。これまで調査も含めて、16回ほど現地に足を踏み入れているという。ドイツでは炭鉱は、「負の遺産」ではなく、むしろ地域再生の貴重な財産になっているという。

Yoshioka03

ドイツでは、建築家も参与して1901年から「IBA」(Internationale Bauausstellungの略語 国際建設展覧会)が組織されている。かなり一般化している伝統的な「まちづくりの手法」という。都市の再生と建築との協働作業。それが各地で実践的に行われている。だから長い歴史があるようだ。映像で、幾つかのプロジェクトを紹介してくれた。少し紹介しておきたい。

Yoshioka04

ベルリンの東にあるラオジッツ地域での露天掘りの施設を活用した「光と音のインスタレーション」や、デュッセルドルフの北、ドイツ重工業の中心であったルール地方の再生を目指したプロジェクト「エムシャー・パーク」など、どれ1つとってもスケールが大きく、活気に満ちていた。特にエムシャー・パークは、高炉をそのまま残しながら、製鉄所全体を公園にするというもの。

1960年代には、川に汚水がたれ流しされ、大きな汚染があったという。いま土や水環境との調和を目指して

計画が進行しているという。ドイツでは、現代美術家も参加していた。梱包の美術家クリストは、ガゾメーター内部での壮大なドラムカンを集積した壁を制作した。鉄の彫刻家リチャード・セラの作品もあった。たしかに暗くない、むしろ炭鉱遺産を積極的に活用し、むしろ起爆剤にして「地域おこし」をしていると感じた。

 Yoshioka05

 Yoshioka06

 

 私は、これは哲学の違いが影響しているかとも想った。欧米では、どんなに古い建物であっても、それは「壊すもの」でなく、まず「保存」すべきものと考える。建物も、人格といのちを具有した「生きた人間」と同じとみている。また日本では、国も地方もさらにいえば企業も、産業遺産への「敬愛の念」が低すぎる。

 吉岡は、空知の炭鉱遺産を財産にして、イギリスやドイツの炭鉱都市とも交流している。また幾つかの再生計画を実施している。2001年からは、港町小樽と国内有数の良質炭を産出した幌内と結んだ列車の線路に、灯かりを灯すワークショツプを実施している。2005年には、自治体首長にも参加してもらって、どう遺産を生かして地域を元気にするかを論議した、「炭鉱遺産サミット」の開催など。また学生や市民が参加したアートプロジェクトも動いている。2009年「幌内布引アートプロジェクト 炭鉱(やま)の遺産(きおく)を掘り起こす」がそれ。このアートプロジェクトには、「サラ」メンバーの上遠野敏が声をかけて、札幌市立大学の学生も係っていた。それに係ったメンバーも、今回参加してくれていた。

吉岡は、炭鉱の遺産に、まず自分の身体を置いてほしいといっていた。さらに壮大なプランがあるという。空知を元気にすること。さらに北海道全体を元気にすることを考えているという。そのために14の拠点を設定し、市民ネットワークを築きたいという。そのベースとなるのが、炭鉱遺産であり、それを媒酌(仲介)にして、人と人、歴史と文化、過疎と都市をつなぐ回廊を築きたいという。そうすれば、炭鉱の遺産を掘り起こすことが、「炭鉱の記憶」を掘り起こし、それが自分の「街の記憶」にも関心を抱くことになるはずである。

 Yoshioka07

 私が印象に残った言葉がある。吉岡は、まずみんなに「好奇心のブースター」を作動してほしいという。この「好奇心のブースター」という言葉。なかなかいい言葉ではないか。「好奇心のブースター」が何かを動かすパワーとなり、それが集積すればとても大きな力となるはずである。(柴橋)

2011年10月10日 (月)

「川上りえによる川上りえ」

「川上りえによる川上りえ」          -開催日 2011826日(金)-

講師

川上 りえ(彫刻家)

千葉県出身。東京藝術大学大学院修了。1990年より北海道に在住。個展、グループ展を通じて金属彫刻、インスタレーション、インタラクティブ・ワークス、サイトスペシフィック・アートを制作発表。02年〜08年にかけて、アメリカや韓国でのアーティスト・イン・レジデンス・プログラムに参加、展覧会出品。現在は石狩のスタジオにて、作品を制作し、札幌を中心に活動。作品と対峙することで得る感覚が深層意識に語りかける作品を生み出したいと考える。

■会場 ト・オン・カフェ  

■受講者40

凛とした個性を感じたレクチャー

Rie1

Rie2

冒頭の映像が刺激的だった。幼い頃の川上りえの写真だった。最初の話は、生まれた千葉時代のこと。美術家川上りえになる前の素顔を知ることができた。このレクチャーを聴きながら、アートの発火点となるものは、人により差異はあると思うが、川上にとっては、小さい時から手を動かし、また絵を描いていたことが大きな原動力となっていたようだ。高校生になって、もどうしてもアートを勉強したいと、浪人しながら多摩美術大学への合格を勝ち取った。そこで真鍮やアルミニュムなどの素材を使う金属造形と出会った。

Rie3 

「当時はダリが大好きだった。」という。これは意外なことだった。「ダリの世界観や、絵の中にある別次元の風景に関心を抱いた」という。これまた意外だったのが、大学時代は、バイクを乗り回していたという。風を切って疾走する姿。ぜひともその写真も見たかった。その後、東京藝大の大学院へ進み、鍛金科に籍を置いた。錆の力やたたいて変化する形に興味を抱いた。ハードな作業だったが、「自己表現の言語」となると確信した。当時の作品は、パーツを繋ぎつつ、「呼吸する形」や「プリミティブなもの」、さらに「ほったりしたもの」を感じさせるものに挑んだ。

Rie4

川上は、大学院を卒業後、北海道にきた。現在は、石狩市に在住する。大学などで学生に教えながら、多くの展覧会にも参加している。今回はあまり紹介していなかったが、札幌市豊明高等養護学校 (札幌)や石狩市総合保険福祉センター「リンクル」(石狩)など、多くのコミッション・ワークを制作している。新しい造形、自分らしい空間探求の熱を燃やして、積極的にアートの武者修行をした。海外体験も重ねた。それは中学生の時に、父の仕事の関係により、アメリカで生活をしたことも影響しているようだ。現地の学校に通学し、「言葉の壁」を感じながら、会話することの難しさを実感したという。こうした困難な体験も、あとで大きな力となったようだ。というのも今度は、アート作品が言語の壁を越えて、会話する貴重な手段となることを学んだからだ。これまで川上は、数度にわたって文化庁への申請やフリーマン基金(アメリカ)などを有効に使って、アメリカ(ヴァーモントスタジオ・センターやNY・ロケーションONE)などで制作をした。多国籍の人達と出会い、作品を通じて、交流ゾーンが拡大した。今回のレクチャーでは、その生活や制作システムなどが重点的に映像で紹介してくれた。ここで私が強く関心を抱いたのが、アメリカでは、かなり著名な美術家なども、アート・イン・レジデンスなどの制度を活用し、制作していること、さらにそこで制作しているメンバー達の作品批評をしてくれるという事実だった。上下関係のない自由なその雰囲気が、とてもいいと感じた。もう1つ感じたことは、川上は異国での作品制作により自己内省を深め、さらに自らの自己同一性とは何かを突きつけられるとてもいい機会となったのではないかと思ったことだ。それは私なりの言葉でいえば、アートにおける普遍性と個別性の関係をじっくりと突き詰めることになったはずだ。さらに海外体験を重ねる中で、いつしか無意識のうちに、「日本人としての色や形」とは何かを意識するようになったはずだ。

さて川上りえの制作とはどんなものであろうか。鉄などのハードな素材を扱いながら、ガス溶接、曲げ、磨きなどという力作業が中心となる。そんな厳しい作業の中でも、人や素材との出会い、さらに作品展示する空間などを大切にしながら、常に自分らしい造形に挑んでいる。その背筋をピンと伸ばしていく生き方、しなやかで凛としている。そんな作品づくりに感銘を受けた参加者から、こんなコメントが寄せられていた。「しっかりと、自分のことをみつめている人だ。」「女性としてもとても、元気をもらった。」

Rie5

最後に、少し個人的な感慨を提示しておきたい。これまでもしなやかな線や形で、大地を基底にしながら、自立する彫刻や人形(ひとかた)や、2010年の茶廊法邑での個展「イロジカル・ムーブメント」では、生命のエネルギーに繋がる螺旋形を表象化した。さらに人間の意識をこえた大きな時間の流れや、「呼吸する空間」を構築してきた。近年は、特に双方向のアートを志向しているように思える。

Rie6

すでに2004年には、ヴァーモントスタジオ・センター内のレッドミルギャラリーで、面白い試行した。隣の部屋(ワインとデザートが用意されている)にいくためには、作品を潜り、触らないと辿り着けないという趣向にした。そのため他者により「変形」「消失」していく作品となった。また映像でも紹介していたが、2010年に札幌彫刻美術館で開催された「Plus1 This place」では、一室に細い針金をはりめぐらして、海のような空間を開示していた。鑑賞者が作品の中に、身体で感応する空間を仕組んでいた。

Rie7

これからも手の痕跡を生々しくみせながら、感覚を刺激させる生命的な線と空間をみせてほしい。それが視る者の「隠れた感覚」を蘇生させる。そんな新鮮な空間造形をさらに開示してくれることを願っている。

(文責・柴橋)

2011年8月 2日 (火)

第15回「絵画からの発展的インスタレーションの現況」

SAPPORO ART LABO 2011 サッポロアート・ラボ 第15回「絵画からの発展的インスタレーションの現況」-開催日 2011年7月17日(日)- ■ 講師 ★ 澁谷俊彦(美術家)1960年北海道生まれ。札幌、東京、名古屋、京都、大阪、ニューヨーク他、国内外で個展開催。グループ展多数。06年~絵画の境界線をめぐるインスタレーションへシフト。09年第1回茶室DEアート開催。11年2月スノースケープモエレ6に参加。雪上インスタレーションで野外へフィールドを拡張。同年12月からは札幌芸術の森美術館・中庭前庭で雪上インスタレーションが企画されている。北海道芸術学会会員。 ■会場 茶室寿光庵/木乃実茶屋(紅桜公園)  札幌市南区澄川4条13丁目389-6紅桜公園内  ■ 受講者46 名

-茶室でアート三昧-

Chashitsu1

「サラ」の例会を、初めて別会場で開催した。交通の便のこともあり、少々不安な面もあったが、定員を大きく上回る盛況をみせた。今回のレクチャーは、サラ・メンバーの美術家澁谷俊彦。個展会場は紅桜公園内の茶室寿光庵、そしてレクチャーは、隣接した木乃実茶屋で行われた。最初に寿光庵で作品を鑑賞してもらい、その後に木乃実茶屋で、今回のタイトル「絵画からの発展的インスタレーションの現況」に沿って講話がなされた。なにより会場の風情がよかった。多くの人が、「札幌にこんな和の空間があったとは」と、空間の個性に驚いていた。開拓神社や巨石を配した広大な庭空間。それは実に北海道的なスケールをみせてくれる。聞くところによると、この庭全体は、金沢の兼六園を模しているという。晴天とはならなかったが、小雨による適度な湿り気が、庭の緑となじみ、しっとりとした落ち着きを感受させてくれた。

Chashitsu2

今回澁谷は、別冊の資料を用意してくれた。さらにモノタイプの絵画や、手に取って鑑賞する半球体オブジェなどを用意してくれた。実際に手にして見ることもできて、これも作品世界を理解する上でとても有効となった。

 さて前半のレクチャーは、「インスタレーション移行前の平面作品(モノタイプ)の紹介」と「インスタレーションへの移行」について。講話を聞いていて、改めて気づかれたことがある。それはインスタレーション移行前後に、「絵画の場合」という運動体を組織し、展覧会と議論(理論や討論)を数年にわたり行っていたことが、その後の大きな飛躍台となっていたようだ。とかく美術家は、制作オンリーで、相互に理論や討論を戦わせることは少ないものだ。澁谷は、この運動体を通じて「現代絵画とは何か」「絵画の空間や境界とは何か」を問いつつ、制作に反映させてきた。そこから生まれたのが、柱状オブジェの導入であり、ラバーシートを支持体にして増殖する壁面構成だった。「森のイメージ」を大切にしながら、キャンバス空間の天地左右から開放を目指した。そして見る人の、作品の焦点距離を自在にした。こうして水滴や露をイメージさせる「森の雫」を造形した。こうした絵画の境界を越えていく実験的な志向から誕生したもの、澁谷は決して難解にならないように工夫した。作品空間は、親密かつ静謐な森の空間に包まれたような感覚を味あわせてくれた。

Chashitsu4_2

 

その後、休憩をとり木乃実茶屋が作ってくれたドリンク(抹茶やシソを素材にした)を飲んでもらった。後半は、「反射光を用いた新シリーズの展開」「野外への拡張」「更なるサイトスペシフィック」に論を進めてくれた。「反射光を用いた作品」は、「北海道立体表現展」(札幌芸術の森美術館)や個展などで開示した。新しく澁谷は、多くの美術家にとって普遍のテーマである「光」を主題にした。トンネル状・箱型・波状のフォルムを持ち込みながら、支持体の下に白砂を配置することで、色と影の微妙な関係づくりに留意した。私には、それらの作品と出会う中で、どこか日本の庭空間(枯山水の空間美)に通じるものを感じていたし、ランドスケープ(景観)の縮図であるとも感じていた。かくして澁谷は、かなり独創的な手法を編み出したわけである。最近では、光の反射力を活用して、雪の中でのインスタレーションにチャレンジしている。札幌・モエレ沼公園で開催した「SNOW SCAPE MOERE6」(2011年2月)に参加した。厳しい大自然のなかで、寸時に変幻する光のスペクトル。それを「SNOW PALLET」と名づけた。澁谷は、鉄製の円盤状の形体を用いた。天板裏面に蛍光塗料を塗った。それを雪の中に置くことで、反射光により雪の空間全体が色に染まっていく。「室内空間で用いるLED電球の光とは違い、太陽光が一番ナチュラルで、美しい!」という。実際にやってみて、「光源は少なくてもいい、日没前後の方がとても、柔らかい微妙な変化を味わうことができる」という。

Chashitsu3_3

レクチャーの後、感想や質問をうけたが、いつもより質問が多かった。澁谷が現在追求している、「絵画からの発展的インスタレーション」という、作品づくり(創造の原点)に関わるものが多かった。それだけ澁谷の先端的な仕事に、多くの人が興味を抱き、関心をもっていることの、証左であろう。

最後に個人的な感慨を述べさせてもらえば、私は、現在進めている空間を素材にした作品づくりには、澁谷の体内に組み込まれている「和のティスト」や、空間志向が強いバネとなっているのではないかと思っている。いうまでもなく枯山水の庭には、ミニマル性とマクロ性が共存しているように、澁谷の作品空間には、「見立て」志向を生かしつつ、良質なミニマル性とマクロ性が内在している。だから見ていて、とても開放感を感じることができる。もう1つは、澁谷の無邪気な童心、ユーモアや遊び心も隠れていることだ。それが観念的に走ることに適度なブレーキをかけてくれる。作品の中にそっと、蛙やコンペイトウなどを隠すのはまさにそれを示している。

これから澁谷が、北の大自然を対話しながら、どんな風に絵画性(色の作用・フォルムの力・空間の質など)を基点におきながら空間触知を目指して、私たちのどんな出会いをみせてくれるか、楽しみにしたい。(文責・柴橋伴夫)

Chashitsu5

2011年7月 4日 (月)

「岡本太郎の肖像」  

「岡本太郎の肖像」          

開催日 2011年6月24日

(金)-

■ 講師

柴橋 伴夫(美術評論家)

1947年岩内生まれ。詩人・美術評論家。砂澤ビッキや難波田龍起を評伝スタイルで論じ、『聖なるルネサンス

安田侃』『夢みる少年イサム・ノグチ』などを著している。本年中に評伝「太陽を掴んだ男-岡本太郎」を刊行

予定  現在、荒井記念美術館理事、北海道文学館評議員、「美術ペン」編集長など。

■会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

■受講者50名 


-「岡本太郎の実像とその背景にあるもの」-

司会の玉本猛(副代表)さんからの岡本太郎の人と作品について説明されたあと、“実は大嫌いな岡本太郎”という発言からレクチャーはスタートした。1970年の大阪万国博覧会に反対の立場であった柴橋さんは、早く万博は終ればいいと当時思っていたという。 岡本の評伝を書くきっかけは、十数年前日本の戦後抽象表現芸術の代表的作家である難波田龍起(旭川生まれ)の評伝を執筆中のことだった。朝日新聞の小さなコラムにこんな一文が載っていた。「戦後の美術の中で難波田龍起が月であるならば、岡本太郎は太陽である」と。かたちと色の純粋な追求を目指した難波田龍起に対して岡本太郎はその対極に位置付けることが出来る。この対極の関係性が岡本太郎の評伝執筆のきっかけの一つとなった。難波田龍起の当時の資料を求めて岡本敏子さん(岡本太郎の秘書であり、養女。実質的なパートナー的存在でもあった)にお会いした。万博後のテレビ出演、CMでの過激発言「芸術は爆発だ」など太郎の行動には彼女が関与していたようだ。イサムノグチの評伝では「地球を彫刻した男」、今回岡本太郎の評伝には「太陽を掴んだ男」(7月上旬刊行予定)と題した。

1.「異形の家」-魂の形成力その前衛性はいかに-

岡本太郎は父:岡本一平と母:かの子との間に長男として生まれた。岡本一平は政治漫画家(ジャーナリスト)として一世を風靡した時の人であった。その後、小説家を志した。(遺作、小説構想「一休迷悟」) 岡本かの子は川崎市高津の生まれで豪商・大地主(大貫家)の長女であった。兄、大貫晶川は谷崎潤一郎と親交のあった文学者であり、家の伝統と文学の気質のなかで育まれ歌人、小説家として活動した。彼女の特筆すべき点は「全ては芸術のために」の言葉に集約される。社会常識では図ることの出来ない“情念と愛に奔る女性であった。 その代表的なことがらの1つは愛人との激しい愛や同居生活であった。一人目は早稲田大学生の堀切茂雄である。堀切との関係は小説「血」に描かれている。L(かの子)とLの夫(一平)という記号化された表現でその愛を描いた。愛の終焉に手渡された二人の子供の位牌に結核で吐血した血がかかる、という悲劇的な内容である。かの子はまた才能ある歌人(与謝野晶子を訪ね、明星で短歌を発表)でもあり、「たそがれの風に吹かれて来し人のうすら冷たき頬をくちづけぬ」という歌を詠んだ。相手は堀切茂雄である。次に慶応病院の外科医、新田亀三の存在である。病院で知り合った後、3人の奇妙な同居生活が始まりヨーロッパ旅行も同伴し、かの子が亡くなった際の葬儀も共に行った。「異形の家」でありながら彼らは純粋に生きていたのではないか、と柴橋さんは批評する。そんな家庭環境の中で太郎は生まれた。太郎は小学1年(慶応幼稚舎)にして寄宿舎生活を強いられた。太郎は慶応の普通部から自らの特訓を経て東京芸大に一発合格するも父一平の仕事の都合(ロンドン軍縮会議の取材派遣)に同伴し、1年の12月に渡欧することになる。 

 ここで話は父、一平の晩年へと変わる。かの子の死に際し、多磨霊園に手に入れられるだけの沢山の赤いバラの中に彼女を埋葬(土葬)した。その後、疎開先の岐阜で八重子という一般女性と再婚し、4人の子供を設ける。この子供達を太郎が東京に呼び寄せ、成人するまで面倒をみたという。太郎のヒューマンな側面を垣間見る出来事である。 一平の死に際しては、その厳しい精神生活を顧みて出棺時“凱旋”と称した。立派な仕事を成し遂げた父に対して「岡本一平万歳」を三唱した。(※写真は岡本一平の墓)

Shibaoka01

. 知の巨人-パリ大学ソルボンヌ校

岡本太郎の著書『今日の芸術』では3つのテーゼを掲げている。「うまくあってはいけない。」「きれいであってはいけない。」「ここちよくあってはいけない。」と真逆な方向付けをした。また「人間とは全てを行わなければならない。特化した専門家であってはならない。自分は全人間的である」と唱えた。このような独自の彼の思想はパリ大学ソルボンヌ校での学生時代に養われたのである。アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル哲学を学び、自ら「対極主義」を打ち立てる。

Shibaoka02

また文化人類学者(民族学)マルセル・モースの薫陶を受け、ヨーロッパ文明とは異なる先住民族やオセアニアの文化に興味を示していく。シュルレアリストのアンドレ・ブルトンは岡本の絵画を高く評価したが、彼の書斎にオセアニアの仮面などが収集されていたのも興味深い。のちに縄文(火焔式土器の芸術性)や沖縄(イザイホー、久高島の「うたぎ」など)のプリミティブな事象を再評価していくこととなる。写真はブルトンが最も評価した作品「痛ましき腕」である。1937年パリのG.L.Mから出た画集の中で太郎はこう述べている。「芸術は現実を告発し、否定し、それを超えた世界を表出するのだ。しかしあの時代のわたしは美しい情感にみちたヨーロッパ生活の環境、つくりあげられた現実を甘んじて受けるしかなかった。異様に苦しかった時代である。絶望と非力感、追い込まれた自分を画面に凝固させた。わたしは青春のリリシズムと甘美な苦悩を空間にひるがえるリボンの形でひらめかせた。」 具象と抽象の表現の狭間で悩む太郎の心情がうかがえる。

Shibaoka03

また当時 ジョルジュ・バタイユの思想に傾倒し「コントル・アタック」(反撃)反ファシズム運動に参加した。  ここで1975年に制作された伝記短編映画「マルセル・モースの肖像」の中でジャン・ルーシュが岡本太郎にインタビューした際のコメントが紹介された。太陽の塔に関しての質問に対して「日本の伝統にない新しいもの、ヨーロッパにないもの、日本の美ではないものを作りたかった。作るということは繰り返さないことです。」子供を作らない理由を問われ、「子供は創造物ではない。創造とは簡単な生産を否定することである。私は困難な創造しか求めません。自分は絶対的な父でなければならない。宇宙となるのです。私は自分の父であり自分の子供でもあるのです。(抜粋)」と答えている。        

日本へ帰国後,3年の徴兵と俘虜生活を経て戦後フランスで再デビュー。 ここからは映像での作品紹介が主となる。(50年代の空間のうねった作風を柴橋さんはバロック的絵画と呼んだ)主なものを列記する。「夜」(1947年)「森の掟」(1950年) 書字的作品「黒い生き物」(1961年) 「遊び字」シリーズ<> (1975年) 次に多岐にわたる周辺の仕事として 「キリンシーグラムの顔のグラス」「名古屋久国寺の梵鐘」「建築・マミ会館」「座ることを拒否する椅子」映画「宇宙人東京に現る」の宇宙人キャラクター etc .

.岡本太郎の現代性 未来性 いまなぜ太郎か

ひとつは芸術概念のひっくりかえし。安住する意識への攻撃。(「今日の芸術」でのテーゼ)

「芸術は爆発だ」とは単なる自爆ではなく、高い精神性の保持が必要なのだ、と読み解く。 《明日への神話》は核時代の悲劇、第5福竜丸の被爆事件に基づいた図像である。そして《太陽の塔》のある大阪万博は人間を主題にした初めての第1回万博だと発言している。 そして戦争体験から《第4番目主義》反暴力思想・平和主義を唱える。 全人間的に生きるという《前衛主義》を貫いた。 太陽の塔に関しては、民俗学的要素の集大成を内部展示に込めた話と万博時のエピソードが紹介され、太郎の死に際しては、葬儀は行われず後日、誕生日であった2月26日に草月会館で「語る会」が催されたことなどが説明された。最後に太郎の詩が紹介されて、柴橋さんのレクチャーは終了した。

★キリンの首 天まで届け お日さんの顔を四角にしろ  ★赤い兎を上げましょう

いまなぜ岡本太郎が再評価されているのか?そこには揺るがぬ岡本流哲学の実践が日本の高度成長へのアンチテーゼとして、現在の日本の抱える様々な問題にその解決への精神的道筋を説いているのではないだろうか?また忘れてしまった昭和の反骨精神への郷愁かもしれない。      

 (文責 澁谷俊彦)

2011年6月22日 (水)

「私の見た国外の美術状況」

「私の見た国外の美術状況」 

-開催日 2011527日(金)-

講師

鈴木 吾郎(彫刻家)

1939年芦別生まれ。北海道学芸大学特設美術科卒業。近年は精力的に海外で作品を発表。03年には、ベルギー「リンクアート・ゲント展」、04年には、フランス・コルマール「日本創造の世界:土と炎展」、05年には、パリでテラコッタ新作展、08年には中国鄭州市で個展を開催した。現在まで個展31回。モニュメント57基を設置している。

■会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

■受講者35

海外での「挑戦者」鈴木吾郎

小樽在住の彫刻家鈴木吾郎に登場してもらった。1939年芦別生まれの鈴木吾郎は道立札幌西高校から北海道学芸大学(現・北海道教育大)札幌分校特設美術科に進み、藤川叢三に師事、主として人体像の彫塑作品を制作し続け、これまで全道各地に50基を超えるモニュマンを制作しています。

Goro01

はじめに映像でトラブルがあり、みんなに迷惑をかけてしまった。それでも、鈴木の熱弁にみんなが引きこまれていった。最後に気づいたら、予定時間をはるかにこえて、120分ほどのレクチャーとなっていた。会場には、鈴木のかつての学友も駆けつけて、会場全体に和やかさを醸し出してくれた。

はじめに、鈴木が師と仰ぐ具象彫刻の大御所佐藤忠良さん(札幌二中出身で、鈴木の大先輩でもある)の話をしてくれた。鈴木は、これまで幾度となく、佐藤忠良のアトリエを訪問しまた鈴木の個展会場(東京銀座)にもよく足を運んでくれたという。

今回は特別に、佐藤忠良さんから送っていただいた絵葉書をみせてくれた。ある時は近況報告を、またある時は励ましの言葉を記してくれた。いつも文に絵を添えてくれた。その中でとても心に残った言葉があるという。「最近になって随分仕事がダラダラしていたのが分かり、しばらく落ち込み、この頃3ヶ月ばかり写生に徹した裸をやっているところです。」写生(具象)の神髄に触れた、なんと激しい自戒の言葉であろうか。

Goro02

さて鈴木は、近年精力的に海外で個展を開いている。その契機となったのが、3回目の銀座での個展だった。そのギャラリーが「個展をひらきませんか」と、ベルギーのゲント市で開催されていた「アート・エキスポ・ゲント展(2003年12月)に誘ってくれた。そこから、さらに輪が広がっていった。鈴木の作品に興味を抱いた美術関係者(画廊)などが、さらに声をかけてくれた。翌年の2004年には、コルマールで「日本・創造の美:土と炎展」(「日本学研究所主催」に出品した。そこでは「アニマッション」(日本でいうワーク・ショップ)を行い、大いに人気を集めたという。

海外で個展をする。それは美術家にとっては、一生の夢かもしれない。いざそれを体験してみると、システムが日本とはかなり違うことがあることに、気づかされるようだ。こんなこともあったという。フランスでは展示を専門家が取り仕切り、作家は全く口を挟めなかった。

Goro03

また公設施設であっても作品販売はOKだった。さらに欧州では、民族(宗教)間の対立が重い影を落とし、単純に人道的な想いだけで行動してはいけないことも知らされたという。というのも、鈴木は、現地で「アフガン教育支援」を申し出たが、「いま、ここでは、それはやめてください」と断られたという。2005年には、パリで、「鈴木吾郎テラコッタ展」(エスバス・ベルタン・ポアレ)を開催した。パリのオープニングは、挨拶も紹介も無く、ワインを飲みながらそれぞれが歓談しているだけという。それで入場者は積極的に話しかけて、質問を投げかけてくれた。最後には、たくさんのメッセージを書いてくれた。

Goro04

それを

画像でみせてくれたが、彫刻から受けた感慨を素直にかつ的確に表現してくれていた。どうだろうか、日本では、なかなかこうはならないのではないだろうか。最後は、2008年に中国鄭州

市で、「鈴木吾郎彫塑展」(鄭州市美術館) を開いた。ここは、中国中央部河南省(1億3千万人)の首都で、洛陽と少林寺が東西にありBC3000年ころから栄えた黄河文明発祥流域にある都でもある。それは第10回アジア芸術祭・展覧会部門として、開催してくれた。ここでも中国式のやり方に振り回されたという。肝心の作品が届かない。予定通りに会場設定が進まない。でも最後は深夜にわたって人海戦術で開会に間に合わせてくれた。これも中国式の展覧会システムのようだ。一番びっくりしたのが、盛大な開幕式の挨拶に、「尊敬する…」と、偉い方々への感謝の弁をいれてくれといわれたとき…。私も聞いていて、国によってこんなにも違うものかと、改めて気づかされた。開催時期は、ちょうど国慶節(祝日)とぶつかり、沢山の来場者があった。実は鈴木は、自分の具象作品はサイズも小さく、社会主義リアリズムの影響が長かった中国でどんな風にみられるか、とても気にしていたという。結果的には、大成功で、とても興味深くみてくれて、彫刻を楽しんでくれたという。特に子供達を対象に(ワーク・ショップ)を実施し、とても優れた感性をみせてくれたという。ふと私は、ひょっとして、将来中国を代表する彫刻家が、そこから生まれるかもしれないとも、思った。

今回、レクチャーを聞きながら、私はこんなことを考えていた。それは、はやりアートには、国境は存在しないということ。鈴木の作品世界が、言葉も髪の色も違う、外国人に受けいれられた。鈴木自身も、海外で展覧会を連続して開催できるとは、当初は予想していなかったことかもしれない。でもそれが現実となった。それはどうして可能となったのか、考えてみた。理由はいくつかあるかもしれないが、1つの結論をいうならば、鈴木の作品が、国際的なレベルを保持し、普遍的な価値をもっていたということではないだろうか。展示した多くの作品は、素焼きのテラコッタだった。いうまでもなく、どこの国にもテラコッタがある。古くは、イタリアのエトルリア美術や中国の兵馬俑など。むろん日本の縄文や土偶もある。こんな風に人類は、古くから土と出会い、火を使って道具や日常品、さらに美術品などを作っていた。土の匂いがする、身近なテラコッタがまちがいなく境界を消していったのではないだろうか。さらにいえば、これが一番根元的なことかもしれないが、鈴木が造形する女性像などが、とても「現代的なメッセージ」を放っているためであろう。実際に「泣く女」や「トルソー 風髪」は、すごく人気があったという。

Goro05

国際化の時代が来たといわれて久しいが、いざ美術家達が、欧米で作品を発表し、その作品が評価され、売買までいくというのは、そう簡単ではない。

まして現代美術が主流となる現況の中で、具象彫刻が評価されるのは、難しいことになっている。国際化となると、まず作品が普遍的価値を保持していなければならないし、いうまでもなくそれと同時にオリジナルな形象美や日本的美意識も宿していなければならない。鈴木の作品は、厳しい長い創作活動の営みの中で、それを体現していたわけだ。

鈴木の「挑戦」は、とても意義あることと思った。さらに多くの若いメンバーが、その後を継いでいってほしいものだ。(文責・柴橋伴夫)

「北の空気と建築」 

「北の空気と建築」               

-開催日 2011429日(金)-

講師

平尾 稔幸(建築家)

1953年比布町蘭留生まれ。北海道大学卒業。1989年平尾稔幸建築事務所設立。北方型住宅賞(北海道主催コンペ)・丘の上のリニア・ハウス(建築学会北海道奨励賞)・後志家畜保健衛生所(プロポーザル最優秀)・サイレント・キャビン(建築家協会住宅部会ハルニレ賞)・ミルチ(札幌市都市景観賞)・国希酒造建築群(北海道赤レンガ建築賞)・日本建築家協会登録建築。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

受講者20

自然体から生まれた建築

サラは、2011年度のスタートを切った。通算では、第12回となる今回は、札幌市内に建築事務所「時逍館」を設立して、多くの話題の建築作品を道内中心につくりだしている建築家平尾稔幸(としゆき)を迎えた。タイトルは、「北の空気と建築」だった。

Hirao01

このレクチャーでは、建築学会北海道奨励賞をうけた「丘の上のリニア・ハウス」や、札幌市都市景観賞をうけたアトリエの近くにあるカレー専門店「ミルチ」などを、スライドで紹介してくれたが、それを見ていると、改めて自然空間との繋がりを大切にしながら、素材を選び、空間づくりをしていると感じた。特に札幌市南区の最南に立つ「丘の上のリニア・ハウス」は、高床式の出窓を多く使用し、丘の上から奥手稲への眺望を満喫できていた。

また北海道における雪の問題を意識しながら、かなり傾斜のきつい三角屋根を多用していることからもわかるように、厳しい自然環境と対峙するのではなく、むしろそれを受け入れながら人が住むことを常に考えているようだ。この姿勢、つまり自然との対峙ではなく、自然となかよく付き合う、つまり私がいうところの、親和を重んじる姿勢は、北方型の住居を考えるうえで、これからもおおきな示唆(意味)を与えてくれるようだ。具体的には、「メイゲツカエデの家」「三角屋根に出窓がくっついた傾斜地の家」などから、それを伺い知ることができた。

 私だけでなくレクチャーを受けた参加者も、一番興味をもったのが、「サイレント・キャビン」だった。日本建築家協会北海道支部住宅部会「ハルニレ賞」を受けた作品だ。この家は、平尾の個人住宅。場所は、当別町の中小屋温泉の近くという。スライドをみても、かなり辺鄙な場所というのがわかる。こんな空間だ。「幅1間長さ12間の細長い平面で、1階は雨の日のテラスと玄関とクローゼット、2階は廊下のようなキャビン(生活空間)とブースターとしての寝室が横に張り出している。」まさに自然のただ中に置かれた、まさにキャビンの感じだ。たしかに夏などは涼しく生活しやすいが、冬はどうするのかとこっちは心配するほどだった。が、平尾は平然としていた。彼は、比布町蘭留の生まれというから、むしろ喧騒な都会を離れて故郷の風景に戻ったというべきかもしれない。聞くと、ここには風呂がついていないという。温泉まで行くという。

平尾自身は、別なところで、この空間について、こんなことを言っている。「英国の運河をゆくナローボートのような『旅する船』の感覚を求めてみました」と。こののんびりした、悠然とした自然体の生き様。それを貫く姿勢は、なかなかなものだ。(文責・柴橋伴夫)

Hirao04

Hirao03

私は何度か、円山の閑静な住宅街に建つ「時逍館」(中央区南5条西21丁目1-5)を訪ねている。この「時逍館」の名称は、平尾稔幸自身がつけたものという。この名称には、とても強く平尾稔幸自身の想念、それは大きな見方をすれば哲学といってもいい、生き方の根底に関わるものが色濃く反映しているようだ。

平尾は、築80年をこえる古い民家(札幌でもかなり古い、記念碑的な住宅)をアトリエと住まいにしている。ここにもう20年以上住んでいるという。こっちからみれば生活するには、かなり不便ではないかと思うのだが、平尾自身はその不便さをほとんど苦にすることはない。それどころか、老熟たる風格を示している家を、老いた肉親のようにして大切にしながら生活しているようにもみえる。さらにいえば、その平尾の姿からは、その家をなによりも愛しているといった方がぴったりとす

るかもしれない。今回のレクチャーの中でも、すぐに廃れるものではなく、千年間を生きる建築こそが、本当の建築といえるといっていたが、たしかに人間の英知は、自然のシステムと比較するならば、たいしたことはないのかもしてない。築80年の建築空間により添うことで、人間にとって建築とは何かを考えるいい機会となっているのかもしれない。

いま少し「時逍館」にこだわって、平尾の生活心情に少し触れてきたが、実は彼の建築には、この「時に遊ぶ」という独自な時間感覚が脈打っているようだ。「光陰矢の如し」というが、時間が過ぎていくのは、とても早いものだ。その矢の如く過ぎ去る時間に抗うことなく、肩の力を抜いて、日々生きていくこと。だからこの「時」に「逍遥」する生き方は、言葉でいえば簡単ではあるが、いざそれをしっかりと実行するとなると急に難しいことになるのはいうまでもない。そんなことをいろいろと思索しながら、北の風土に相応しい空間を築いている建築家が北海道にいることは、とても意味あることだと、私は考えている。私が彼にレクチャーをお願いしたのも、そんな理由からであった。

さて視点を少し変えてみると、いうまでもなく自然世界は、いまさらエコロジーといわなくても、人間の思惑とは関係なく、過去から現在まで、一貫して自立し超越した存在であった。人間だけが、便利さ、快適さ、効率さ、安全性をより重要視して、空間を構築しある場合は、独善性に走り、自然さえ破壊してきた。どちらかといえば、家づくりにおいても、同じことが起こっていた。つまり自然そのものや他者から、自分の居住空間を保護し、防備する城的機能を帯びてきた。

どうも平尾は、そんな狭い人間中心の視座から、さらにいえば人間の欲望や功利から、可能な限り自由になろうとしているようだ。むろんクライアントの要望もいれなくてなはならない。でも自分の建築に関する主義(主張)をあまりに譲ってしまと、個性のない空間に堕してしまう。平尾は、それを踏まえながら、できるだけいつもしなやかに対応し、自然との親和関係を保つことを目指しているようだ。

彼の建築の根底には、そんな自由で独自な生き方や自然観に根ざした見方があるようだ。それが平尾建築の最大の魅力といえるかもしれない。

Hirao02

2011年4月22日 (金)

「ヨーロッパのアートシーンで、見たもの・学んだもの」

「ヨーロッパのアートシーンで、見たもの・学んだもの」   

-開催日 2012325日(金)-

講師

斉藤幹男(映像作家)

1978年札幌生まれ。早稲田大学卒業後、フランクフルト、シュテーデル芸術学院にてマイスターシューレを取得。ロンドン、フランクフルトで個展開催。2009年札幌JRタワーARTBOX優秀賞受賞。現在、フリーのデザイナー、現代美術・映像作家として活躍。

会場 ト・オン・カフェ  札幌市中央区南9条西3丁目2-1マジソンハイツ1F 

映像文化の現在と未来性について学んだ

Mikio01

最初に、映像作家斉藤幹男は、自己紹介のかわりに初期の映像作品を紹介してくれた。2つ紹介してくれた。その1つは、フランスのリュミエール兄弟が、蒸気機関車が到着するシーンをフィルムに収めたことに触発され、ループ式の回転する装置で映像を制作したもの。

次にどのように海外で学校を見つけたか、そしてどんな教育環境で生活していたか、また学内でのアートフェアなどについて語ってくれた。

留学までの経緯はこんな風だったという。斉藤幹男は、早稲田大学を卒業後、さらに早稲田大学芸術学校空間映像科に入学した。そこを卒業後は、海外で積極的に武者修行に挑んだ。映像制作で、先端的な場に身をおくことを決めた。当初は、スペイン留学も考えていたというが、最終的には2002年にドイツのフランクフルトにある、名門シュテーデル芸術学院に作品を送り、それが審査を通過して、最終的に正規入学を許可された。このシュテーデル芸術学院で、マイスター・シューレを修得した。2008年には、ドイツから英国へと渡り、2009年には、帰国した。とすれば約7年間単身で、海外で生活し、制作してきたことになる。

海外での留学体験、そして制作の継続。それはそう簡単なことではない。目的や意欲が、いくらあったとしても言葉も違うし、環境も全て違う。それは大変なことだ。それをあきらめずに貫徹したということは、なかなか意志力のある人にみえた。私が聞いていて、特に興味ふかく感じたのが、ドイツの教育・学習システムが、かなり日本とは異なるということだった。

最初斉藤は、シュテーデル芸術学院のシステムになじめなかったという。斎藤自身がこの学院でまず驚いたのが、ほとんどカリキュラムがないことだった。また学生と教授する側の垣根がないことも、とても驚きだったという。教授みずから、手作りの料理を披露し、学生とともに、講評することもあった。余談ではあるが、学食がとても充実していたという。映像には、学食の料理やコックの面々も紹介されていた。

Mikio02 

なにより自分で自立し、学ぶことを開始しなければならなかった。そこでは師に教えを請うという言葉はなじまないらしい。ほとんど作品づくりは、個人の問題ということらしい。学生が教授のアドバイスを受けたい場合は、先にアポイントをすればいいという。ただ人気のない教授は、しぜんと学生のアポイントが集まらないということになる。 

さらに私が驚いたのが、学生が主体的に教授を評価し、ある場合は罷免し、新しい教授就任を要請できるという。新教授となったのは、2008年に英国で芸術家に贈られる最も権威ある現代美術賞イギリスの最高賞ターナー賞を受賞したマーク・レッキー(Mar Leckey)だった。マーク・レッキーは、様々なアニメ・キャラを素材に使い、また彫刻やパフォーマンス作品などを重層的にコラージュする前衛的な手法を駆使した映像作品で人気を集めている。

こんなことができるということは、一校の教育システムにとどまらずに、教育というもの、教授するということが、本質的に違うということからだろう。学生は、いまどんな先生に学びたいのかという欲求を抱き、実際にその先生はどんな作品制作をしているのかを、充分に情報を収集する。私は、この学生主体の教授システムは、やはりドイツ的かなと実感した。さらにいえば、あのヨーゼフ・ボイスが権威や制度を根底から問い直した改革行動が、こんな風に継承されているのではないかとも思った。むろんこれをすぐに日本の教育システムに応用できるとは思えないが、学生が受動型からいまも脱しきれていないことを鑑みるとき、実に大きな本質的な問題を提示しているように思えた。

さて、沢山の映像作品を紹介してくれた。教授の作品や、一番人気を集めている作家の作品など。

以下の文は、私的な感慨となります。そのため偏っているかと思います。その点をご理解ください。興味深く見ていたのは、斉藤が最初に学んでいた教授の作品だった。7年間かけて、フィルムの断片を繋ぎながら、完成させたもの。それは、ほかの人の作品にはない、重層な時間を垣間見せていた。

アパルトヘイト時代の南アフリカにユダヤ系として生まれ育ったウィリアム・ケントリッジの作品は、実に興味深く感じた。木炭とパステルで描く手法がいい。コマ撮りの素朴な味を大切にしている。それがゆったりと動くのが、とてもリアルで表現主義的な絵画的を帯びていた。民族差別などを直視した現代性を帯びた作品だった。ウィリアム・ケントリッジのドローイングを大切にするメソッドは、斉藤の手法に通じるものがあった。 イギリスのロンドンを中心に活動する覆面アーティスト、バンクシーのゲリラ的な作品も面白かった。社会の常識やシステムを攪乱する、激しさは群を抜いていた。そのストリート・グラフィティは、高い値段で売買されているという。どこかキース・ヘリングを髣髴とさせた。過激な行為は、世界的に有名となった。自作を世界各国の有名美術館の人気のない部屋に無断で展示し、パリス・ヒルトンのデビューアルバムの偽物を勝手に店頭に陳列した。まさに破壊的、スキャンダラスだ。

Mikio03

後半は、時間が不足して、やや窮屈な状態になったのは残念だった。

斉藤は、海外で学んだ内実を、少し語ってくれた。作品を作る姿勢に変化があったという。よく分からないものであっても、美しいものがあると。作品を通じて、互いに語りあうことが大切であると。また全ての事象において感性が大切となることを学んだという。 もう少し時間があれば、具体的に作品への影響度などを語ってほしかった。また海外での作品発表の経緯なども聞きたかったのだが…。というのも、斉藤は、海外で数々のコンペで入賞し、作品を発表しているからだ。実際に2007年スウェーデンのルレオ・サマー・ビエンナーレでは最優秀賞を受賞している。また2008年にはドイツ・ウォルフスブルグのAutostadt社、社屋のLEDスクリーン上で一ヶ月間アニメーションが上映された。現在は、札幌を拠点にして精力的に活動している。みなさんも手の動き、ドローイングを大切にしながら、現代をしなやかに見つめる斉藤作品に注目してください。 いずれにしても、映像アニメの現在と未来性について、楽しく学ぶことができた、そんな刺激的なレクチャーだった。            (文責 柴橋伴夫)

«「表現とテクノロジー/現実の拡張形」