2020年9月23日 (水)

第102回 「体験するアート」

4月3日 (金)

上ノ大作 (うえの だいさく 陶芸家 造家)

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縄文人、野生児として

 

第102回例会は、内外で大活躍の上ノ大作にお願いした。多彩な挑戦者らしく、陶芸家の枠を超えて、造形家のアートワークの方が増えているようだ。つねづね自在な発想をするアーティストであると感じてきた。

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いうまでもないが、表現者にとっていちばん大事なことは何ものからも自由であるということ。束縛(制約)や限界をこえて、前に向かって走ること。そうすればこれまで見えなかったことが少し、みえてくることがある。これは、言葉の上では簡単だが、実際には、うまくいかないものだ。なぜなら自在な発想をするためには、しなやかな精神の躍動が必要だからだ。この精神の躍動こそが、表現の幅を広げ、これまでにないことに挑戦する意思を育くのだ。上ノ大作には、そうした自由な精神の持ち主だ。

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それは脱サラをして、陶芸の道を踏み出したことに表れている。まず自分探しの旅をしたという。北の果てから沖縄まで全国の窯を巡った。それは同時に土の発見であり、さらに陶芸がいかに奥深いものであるかを肌で知る旅でもあった。それを踏まえて現在、北広島に工房を築いている。

さて上ノ大作の作品の魅力は何だろうか。陶芸家としては、焼き締めの作品が多い。そうした陶芸の枠を超えて、現在は、屋内外の空間に作品を設置するプロジェクトに挑戦している。空間装置を作りあげるのであるが、そこで注目したいのが素材の選び方だ。土や樹や竹などを使っている。仮設の作品であるが、制作のプロセスも開示しながら進めている。つまり公開制作というわけだ。私が最近みたのが、茶廊法邑での個展。そこでは数日にわたって竹を組み続けた。完成した作品は、あたかも1つの生命体として、空間を自在に動きまわり、生気を放っていた。

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完成品も素晴らしいが、制作過程がとても興味深かった。空間の把握が的確なのに驚いた。偶発にみえるがしっかりと計算されていた。実は、彼は苫小牧工業高等専門学校を卒業し、金属製のモニュメントを製作する会社に勤務し、そこで構造計算を担当していたのだった。空間の把握は、お手のものだったようだ。

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考えてみれば、土も樹も竹もすべて自然素材だ。人工のものではない。つまり人の命に繋がっているのだ。今回のレクチャーで、いちばんおもしろいと感じた作品がある。一つは、「Sprouting Garden-萌ゆる森-」(札幌芸術の森)展でのみせたアースワーク。大地そのものを素材にして、焼き締めを行ったようにみえた。スケールの大きな作品であり、コンセプトがユニークだった。他方は、2016年に帯広で開催された「マイナスアート」展に制作したもの。それは「氷筍」という作品だ。素材は水だ。確かに十勝の寒い大地に咲いた<氷の筍>だが、ある種のいのちの芽生えにもみえた。

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 常に自由に生き、常に土を愛し制作する。その姿はどこか縄文人のような熱い魂を抱いた野生児のようだ。(文責・柴橋)

 

第101回「写真装置:私の表現と写真」

1月31日(金)

前澤良彰(まえざわ よしあき 写真家)

 

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写真を装置にして

 

「サラ」の歩みも、100回をこえて、今回は第101回をむかえた。写真家の前澤良彰に「写真装置:私の表現と写真」と題してレクチャーをお願いした。

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「サラ」では、写真家のアートワークにも関心を抱いて、その都度写真家の仕事を紹介させていただいている。前澤良彰は、京都に生まれている。1980年に札幌市に移住し、現在に至っている。

話を聞くと写真を学ぶ中、森山大道の写真に共鳴したという。よく写真は光と影による芸術といわれるが、森山は<アレ・ブレ・ボケ>と形容される特異な作風を特徴とする。特に光より影の力をとらえようとした。どちらかといえば前澤の写真は<アレ・ブレ・ボケ>はないが、深い陰影、そのニュアンスを大切にするとところは、その影響かもしれない。それは人物や風景を対象にしても、それを大切にしているようにみえる。

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よく前澤は、自分の写真について、自然そのものを「閉じ込める」という言い方をして説明している。ここで留意すべきことは、「封じこめる」とはいっていないことだ。そんな荒い言い方をしないで、あくまで「閉じ込める」というのだ。

私は、この言い方に彼の写真の<><>が隠されているとみている。被写体となった森や水たまり、冬の港、海岸、工場の排気などには、どこか不思議なオーラがいつも宿っている。前澤は、大気の揺れや生命の躍動を身体で感受しながら、その見えないものを、今度は写真の中に導き入れるのだ。それがとてもナチュラルでうまい。また彼の写真には、湿度が内包されている。つまり乾いていないのだ。そのため見ている眼と身体にしぜんと入ってくるようだ。

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それが「閉じ込める」という言い方の「真」ではないか。さらに「術」とは、見えないものを、写真の中に導き入れるための<時間の長さ>(つまりシャッターを切るまでの時間の長さ)を大切にすることのようだ。前澤は、2013年に札幌美術展「アクアーライン」(札幌芸術の森美術館)に出品した。また2019年には、ギャラリーミヤシタでの個展(Shashin Souchi『境界』vol.6)を開催した。私はそれぞれの出品作から、北の大地が発するオーラ、その生々しい脈動を感じ取ることができた。特に『境界』vol.6に出品した大雪山や瀧には、その場に潜む神秘的なものさえ感じたほどだった。現実の風景では感受できないもの、それが顕現しているとも感じた。カメラアイの深度と黒のマチエールが、私をしてそれをよりリアルに、そして鮮明に喚起させた。こうした独自な感性に基づく写真の仕事が評価され平成30年には札幌文化奨励賞を受賞している。

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今回のレクチャーで、新しい試みをしていることを知った。ドローンを駆使し北の風景を撮影している。そんな新しい機器を使っていること、それがやや意外だった。が、動画をみせていただいて、地上からの目線では捉えることができないことが、可能になっていることに気づいた。どこまでも延びる道がダイナミックに捉えてられていた。

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この写真家は、自分のアートワークを「写真装置」と名付けている。こうした新しい機器を使いながらどのように写真が動いていくのか楽しみにまちたい。

 (文責・柴橋) 

2020年4月 5日 (日)

第100回「クラシックギターで語る音楽の魅力」

11月29日(金)

竹形貴之(たけかた たかゆき ギタリスト)

 

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100回をギターの響きで祝った。

 

早いものでサラのレクチャーも100回を迎えた。会場は、満席となった。1年前から100回記念ということで、どんなプログラムにするかいろいろと思案したが、結果的に千歳在住のギタリストの竹形貴之にお願いした。タイトルは、「クラシックギターで語る音楽の魅力」だった。

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プログラムは、半分は語り半分は演奏だった。語りは、ドイツのケルン国立音楽院でギターを学んだときのことや、さらに国内外でのギターコンクールでの入賞エピソードなどについてだった。興味深かったのは、全国学生ギターコンクールでは、現在大活躍の村治奏一らのギタリストらと競い合ったことだった。学生時代からかなり意識して、演奏の質を高めながらよりレベルアップを目指していたという。

さてギターの名曲を弾きながら、奏法や曲の解説などをしてくれた。眼の前で弾いてくれるので、自分1人のために弾いてくれているとも感じた。そんな贅沢な時間を過ごした。心に残ったのは、スペインの作曲家ロドリーゴの名曲「アルハンブラ宮殿の想い出」だった。それはトレモノ奏法で有名だ。

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このトレモノは、この夏の離宮たる宮殿の噴水の音や飛沫を示しているともいう。その奏法をゆっくりと指使いから説明してくれた。序奏のトレモノの反復から次第に動きがましていく。ただ良く知られた曲を、演奏すること。それは簡単なことではないようだ。感動させるためには、演奏者の音楽性が必要となるのだ。

とても懐かしかったのは、「禁じられた遊び」だった。1952年の同名のフランス映画により、世界中で知られることになる。この曲はアルペジオ奏法でも有名だが、原曲があるという。元は古いスペイン民謡という。映画ではナルシソ・イエペスが演奏した。曲の正式名は「愛のロマンス」という。ちなみにイエペスは、ギターの神様といえる人だ。そのイエペスは、「芸術は神のほほえみである」という言葉を残している。そんな心を抱きながら、演奏していたようだ。

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さて竹形のギターは、当然にも演奏の技術は的確でとても素晴らしい。そして音がとてもあたたかいのだ。この音のあたたかさ。それは彼の人間性からほとばしりでているようだ。竹形は、ボランティアでいろいろな処で演奏している。気負うことなく、いろいろな方々にギターの魅力を伝えようとしているようだ。まさにギターの音で、安らぎを与えようとしているのだ。

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最後に100回記念ということで、あることを竹形にお願いしてあった。参加者全員で、ギター伴奏で歌いたいと。お願いしたのは、坂本九の「上を向いてあるこう」だった。私達も、100回の後も、<上を向いて歩いていこう>、また心を新たにしてこの文化塾「サラ」を運営していこうというわけだ。会場いっぱいにギターの音とみんなの声があふれた。みんなとてもいい顔をしてくれた。つくづくこの文化塾「サラ」を始めてよかったと思った。その後、参加者全員でビールなどで乾杯した。

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(文責・柴橋伴夫)

第99回 「創作の現場から一素材との対話」

10月25日(金)

山本美次(やまもと よしつぐ 美術家)

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素材を生かすアート作品

 

第99回のレクチャーは、「サラ」メンバーの山本美次(美術家)にお願いした。タイトルは「創造の現場から―素材との対話」だった。山本は、これまで長く教員として美術教育に携わっていた。教育現場を離れてから、現在はみずからの作品制作に取り組み、個展を毎年のように開催している。

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今回のレクチャーは、これまでどんな素材と出会いながら、いかにそれを作品に昇華してきたかを2006年から順に丁寧に辿ってくれた。

素材は、実に多様だ。たとえば有形なものとしては、生物、文学(詩・言葉)、映像などある。無形のものでは、光、音、風、さらには空間もその範疇に入るようだ。

テーマとなる素材を選んだら、続いて造形の素材を選ぶことになる。造形の素材もいろいろある。芯地や和紙、墨、金箔、アクリル、不織布、蝋、染料などを用いて作品づくりを行っている。

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こうした2つの素材との出会いを大切にする表現の仕方は、とてもユニークだ。ただまちがうと、素材に引きずられてしまう危険もでてくる。山本は、それをうまくコントロールしているようだ。

ではどうして多様な素材が必要なのであろうか。それほどまでに素材というは創造力を喚起するのであろうか。その訳を山本は詩人の平出隆の言葉を引用する形で説明する。<卓越した美術家>は、みずから選びとった物質や観念の内部から、だれも使わないあたらしい<言語>を聴きだしてくるからだと。つまり美術家が造りだすものも、これまでにはない別な<言語>となるというのだ。

実際に、山本はいろいろな作家や本から触発されている。四方田犬彦、長田弘の詩集、色彩の本、仏教の経本(般若心経などや梵字)、ヒエログリフなどだ。

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また扱う素材としてはかなり重い出来事たる東日本大震災などとも向かいあった。この東日本大震災をテーマにした作品では、彼はひたすら点を打ち重ねた。つまり点を打つことで、被災した方々の心と向かいあった。タイトルを「Bing」(生きること、生存、生命の意をこめた)とした。

さらに長田弘の言葉を素材にした「光の予感」という作品でも、点を打った。ただ今度は、点が渦巻き状になった。山本はケルトを意識し、そこに生命の循環や再生を指向したという。

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 このようにたしかに山本の作品は、素材から得るものが多いが、それに限定されていないのだ。必ず自分の思念や生命観と絡ませている。常に何か心にひっかかるものとの出会いを大切にしている。

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その仕方がとても柔軟に行われている。それが山本の作品の価値でもあるし、それはそのまま山本のしなやかな生き方を示してもいるようだ。(文責・柴橋伴夫)

第98回「私の具象と抽象表現」

9月27日 (金)

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アジアへの眼差し

第98回のレクチャーは、西村一夫(版画家)にお願いした。タイトルは、「私の具象と抽象表現」だった。最初にこれまでの歩みを短く話してくれた。 生まれは滋賀県の彦根だった。彦根城周辺で遊んだ記憶があるという。

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小学校2年時に札幌へ来た。東京芸大美術学部デザイン科で学んだ。次第にデザインよりも版画に興味を抱き、版画家駒井哲郎に師事した。

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在学中に大きな体験をした。日本文化の源泉地たるシルクロードの彼方に関心を懐いた。意を決して、1974年に大学院を休学して、2年間イランへ留学した。イランのイスファハンを拠点にして、中近東やアジア世界を回った。イスラム文化の華を開示するイスファハン。そこで日本では味わえないものを感じたという。いろいろあった。星の光や目くるめくモスクなどのモザイクの美。荒地の中をロバに乗って動いたこともあった。

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それ以上に心に残るものあったようだ。それは、人間の形姿であった。特にヨーロッパ文化とは違うものがあることに気付いた。ヨーロッパでは祈る姿をみても、多くの場合、立ち、椅子などに座っている。ただ中近東やインドなどでみた姿はちがった。みんな土の上に坐していた。土、つまり身は大地とじかに接していた。大地に包まれるように横たわることもある。こうしてみんな<大地のいのち>と繋がっているのだ。

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これは西村が中近東などのアジア世界において見聞したものだった。なによりもそれは民衆の姿から学んだものだった。

さて大きな飛躍となったのが、1995年からのNYでの個展や、上海や北京などでのアートフェアへの参加だった。その契機となったのが東京・丸の内画廊での個展だった。この丸の内画廊の繋がりでNYブロードウェイでの個展が実現した。オープンニングでは多くの美術関係者や映画俳優なども顔をみせてくれた。さらにアメリカ人のJAIN(ジェイン)との出会いもあり、それ以後もNYで個展を開くことができた。アメリカでの個展を通じて、自分の作品が「普遍性」をもっていることを実感した。それはとても大きな体験となり、また一方大きな自信ともなったようだ。

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さて西村に絵のモティーフと何か。私がこのレクチャーで確認したかったことだった。西村は、それは「人間の形姿」であり、それは「アジアの宗教の中から」から学んだという。私の言い方をすれば、それは人々の「祈り」の姿勢から得たものだったにちがいない。

それは大地に坐り見えないものに手を合わせる姿だった。こうした<信仰>のカタチ。それがひとえに尊いものにみえという。西村は、その真摯に祈念する姿をフォルムの根元とした。だからであろうか。とても親しみやすいのだ。そしてまた心を癒してくれるものがあるようだ。

版画制作と平行しながら、レリーフや立体造形を制作している。そこでは、「形と色彩」の組み合わせを追求している。単純なフォルム。それにペイントした色。その2つが織りなすハーモニー。抽象的だが心と眼にスーツと入ってくる力がある。それはどうも色が持つ力のせいのようだ。「版」に拘らずに感性を自在に進展させる西村。これからもぜひ独自な世界を追求してほしいものだ。(文責・柴橋)

 

第97回 「下川町環境共生型モデル住宅 美桑」からはじまるー北海道らしい暮らしの提案

8月30日 (金)

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自然と共生する空間

 

第97回のレクチャーは、櫻井百子(建築家)にお願いした。

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タイトルは、「下川町環境共生型モデル住宅美桑からはじまる北海道らしい暮らしの提案」だった。少し長いタイトルとなったが、それまで彼女がとり進めている共生型の空間づくり、その方向を示しているようだ。

櫻井は、一時平尾事務所に入所後、アトリエ「momo」を設立して現在に至っている。この「momo」には、自分の名前の他に、小説家ミヒャエル・エンデの作品に登場する<モモ>にも拠っているという。<モモ>のように、大きな夢をみていこうという意をこめたようだ。

今回のレクチャーのメモで、櫻井はこんな言葉を残している。<建築家、建築士、設計者であるまえに生活者でありたい>と。

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この<生活者でありたい>は、櫻井が一番大切にしていることのようだ。そのために、つねにクライアントの気持ちにより添うことを大事にしているという。また空間をつくるときも、可能な限り、北海道(地元)の樹の素材を使うようにしているという。

彼女は、3つの言葉でそれをいいあらわしていた。<育む><繋ぐ><より添う>と。なかなか素敵なコンセプトだ。

 

下川町は、環境省が進める「21世紀環境共生型住宅のモデル整備による建設促進事業」に参加した。全国20団体のうちの1つとして選定された。さらに設計者選定公募型プロポーザルを経て、設計・建設されたのが櫻井のプランニングだった。

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では櫻井のプランニングとはどんなものであろうか。良く知られているようにこの町は、夏は暑く、冬は寒いところでもある。とても小さな町だが、なにより豊富な山林を活用しながら、個性的な街づくりをしている。

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下川町環境共生型モデル住宅では、地元の素材を使った。場の環境になじむことを目指した。それは環境庁が進める指向と一致するものだった。写真で、その空間を紹介してくれた。それは森の中に、静かにあった。一棟貸にもなっていて、12人位が泊まれるという。たしかに共生を意識した、みんなが憩う場をそこにはあった。近くには、人気の五味温泉もあるという。

特に驚いたのは、二酸化炭素の排出量をしっかりと抑えていたこと。そのために床にカラ松の木炭を敷きしめた。それにより空気の浄化ができるという。

私たちは、よく共生という言葉を使っているが、それを実際に実現することは難しいことだ。建築で、それを行うこと。さらに難しいことにちがいない。こうした自然のエネルギーを活用すること。それが<循環型の思考>ということなのであろう。

そう考えてみると櫻井の指向は、これからの建築の在り方、その1つの方向をはっきりと示しているにちがいない。

(文責・柴橋伴夫)

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第96回「安部公房-越境する想像力と場一 」

7月19日(金)

■谷口孝男(たにぐち たかお 文芸批評、公益財団法人北海道文学館専務理事) 

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安部公房への新たな視座

 

第96回のレクチャーは、谷口孝男(道立文学館理事)にお願いした。久しぶりの文学談義となった。タイトルは、「安部公房 越境する想像力と場」だった。

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いうまでもなく安部公房は、日本の現代文学において忘れてはならない存在だ。ただ残念なことに、最近語られる機会が少ないように感じる。

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そんなこともあり、再び安部文学にスポットを当ててもらった。安部を取り上げてもらった訳はほかにもある。安部の本籍は旭川であり、彼の文学世界を考察する上でも、北海道という<トポス>を抜かすわけにはいかないからだ。

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谷口は、4つのセクションを立てながら論を進めてくれた。

➀安部公房とは何者か

②故郷・旭川と安部公房のいとこ渡辺三子

③道立文学館所蔵・安部公房関連資料

④安部公房のインターナショナリズム。

この様に広く深く安部文学にアプローチしてくれた。そのため時間が不足してしまったようだ。今後機会があったら、ぜひとも提示してくれたテーマ1づつじっくりと論じてほしいと感じたほどだ。

 この短いブログでは、全部にわたってまとめることは不可能にちかいので、私の関心に沿ってまとめておきたい。前衛芸術家としての安部としての活動に触れておきたい。注目すべきは、「世紀の会」を結成し、さらに社会変革を目指して社会的活動を熱心におこなっていたことだ。安部にとって前衛とは、単なる<飾り>ではなかった。全存在を賭して行うべきことだった。その中には、かなり過激なダム建設反対の工作運動もあった。

そんな時期に文学者として問題品を発表した。それが『壁-カルマ氏の犯罪』(1951年)だった。その後、『砂の女』などの<失踪>三部作が書かれた。

 谷口が、レクチャーのタイトルに<越境する想像力>とつけたのはなぜか。これがこのレクチャーの要(かなめ)であろうか。谷口は、安部が旧満州でそだったことを<越境する想像力>の一因としてあげていた。さらに加えるならば、北海道は中央からみれば<辺境>の地である。こうした<場>と<現実>に対し、つねに疎外感と異和感を抱いた文学者だった。世界を辺境として認識する、それを自らの文学の原風景とした。これが安部作品が世界中で読まれている1つの理由かもしれない。

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安部自身は<砂漠が暗示するものは「辺境」である>ともいっている。だからこそ『砂の女』では、現代文化を象徴する空間、つまり辺境としての<砂の空間>を描きだしたのであろうか。安部は、つねに内側にどこでも所属しない、ある種の<辺境>というものを抱えこんでいたにちがいない。安部がカフカの文学に共感したのも、それが影響したようだ。 またこんな見方もできるかもしれない。安部が小説『榎本武揚』で描きたかったのは、明治以来の善悪道徳とはことなる<第3の道>、つまり<辺境>としての北海道があったことを示すことだったかもしれない。それにしてもなかなか刺激的な、そしていろいろな問題を提示したレクチャーだった。

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(文責・柴橋)

2019年10月24日 (木)

第94回「自己の感性と表現を探り60余年」

2019年5月31日(金)

■講師:坂口清一

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画業60年を振り返って

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第94回例会は、画家坂口精一にお願いした。タイトルは、「60年の画業を振り返って」だった。

少し耳の状態が悪いようだったが、<60年の歩み>について熱をいれて語ってくれた。

港町岩内で誕生した時は、一貫350匁の体重で誕生したという。かなりビッグだったようだ。今でもがっちりした体型だ。後年祖母から双子で出生すると思っていた事などを聞かされた、という。

はじめに生地岩内について紹介してくれた。むかしから漁師の街であり、かつては鰊で栄えた。岩内山がそそりたち、海も河もあり風光明媚なところだ。そんな恵まれた環境から、木田金次郎など多くの画家も輩出している。一時小樽派と対抗する位に岩内派と呼ばれる程に画家が道展などで活躍した。

坂口は、少年の頃の風景を大切にしている。特に日本海が造りだす光や音、街の中の匂いや人々の会話が、ドラマチツクな動画となるという。海と共に歩んだ日々を想いだし、こう表現していた。「凪の日を喜び 大時化の日は悲しみを」感じていたと。どういうことか。凪の日は、海難事故もなく安全だが、時化になると大きな事故が起こり、死者が出たりすると悲しみが街を覆うということのようだ。

また自宅前には造船場があり、船の進水の日はいつも航海の安全と豊漁を祈っていたともいう。またこんな体験もした。貝塚発掘の体験をしたが、そこから眼には見えない悠久の歴史の存在に気づかされた。さらにアイヌ文化の素晴らしを学ぶことができた。こうした体験からアイヌ文様などを活かした作品も制作した。 こんなこともあつた。23歳の頃に油絵具一式購入した。F20号の「港」を描いた。その絵はある画家に評を請うと、画面全体に加筆した。その横暴さには唖然としたという。

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この体験から、あることを確信した。指導者は「制作者の感性を理解し、表現に自信と喜びの道へと導くべき」だ。制作者は、「魂の奥底から湧き出る自身の感情を」を描くべきだと。その数日後9月26日に、町半分を焼き尽くした岩内大火に遭遇し、画材も描いた絵も消滅してしまった。

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 公募展にも出品した。道内では全道展に、道外では「自由美術家協会」(1937年創立)に出品し、昭和41年には会員に推挙された。

この画家は、これまで2度にわたって、「生命の光の体験」をしている。光、それはいのちのシンボルとなった。初日の出のサンピラに「いのち光」を感じた。また胃癌手術前日、カーテンの吊り金具部分をみていた。金具が冠に、カーテンが舞う装束にみえた。

坂口は、光を啓示と捉え、大胆な構図の中にそれを描いた。地から放射し、天を割いていった。このように独自な感性を生かして、絵画空間の中に生命の輝きを宿そうとしている。神秘的な光。それが絵画にエネルギーを付与した。これからも、生命の光が満ち溢れれる作品をみせてほしいものだ。(文責・柴橋)

2019年10月17日 (木)

第93回 「島田無響の人と作品を語る」

2019年4月26日(金)


○講 師=松永律子(まつながりつこ 書家・島田無響遺作展実行委員長) 

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多芸の人島田無響

   


第93回例会のタイトルは「島田無響の人と作品を語る」だった。 講師に書家松永律子をむかえた。彼女は、2018年 秋に大通美術館で「書家島田無響遺作展実行委員長」を務めていた。また会場には、無響さんの弟の書家一嶽も来ていただき、思い出も語ってもらった。

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レクチャーの構成と映像づくりに柴橋が協力した。島田は、多芸な人で、まさに多面な分野で活躍した方なので、できるだけ話をコンパクトに進めるため映像も整理した。一番最後に、大通美術館での遺作展に展示した作品を映像で紹介した。

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まず島田無響の歩みを紹介していただいた。東京では興亜火災に勤めつつ、書を津田翠岱に師事した。また滑川マツと結婚した。オシドリ夫婦だった。縁があり札幌に住まいを移し渡辺緑邦に師事し、創玄会や毎日書道展などに出品した。

島田はひときわ多面性を帯びた作家だった。きっぷのいい江戸っ子気質の持ち主で、いつも酒を愛しつつ、何をするにしても遊び心を忘れない方だった。書、歌舞伎、狂言、お茶、いけばな、俳句などジャンルを自在に横断した。

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いけばなは、勅使河原和風流に属して、いつも和の感覚を生かして、優れた作品を披露してくれた。さらに仲間と流派をこえた展覧会「5つの個展」や「風」を立ち上げ、いけばなの枠をこえた革新的な運動を推進してくれた。

いつも学びを続ける方だった。漢詩を深く愛する方で優れたエッセイを書いていた。

自らが主宰した「點の会」(1970年結成)の門下生を引き連れて、漢詩世界と書の現場たる中国への旅をのべ7回にわたって行った。山東省曲阜では書法交流を行い、また泰山では周恩来夫人の磨崖や雲崗石窟などを見聞した。

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さて島田の書世界はどうか。かいてかいてかきまくる方だった。また展示についても、つねに斬新な空間づくりをめざした。特に札幌・京王プラザホテルでの階段空間を活かした構成などは斬新で印象ふかいものだった。絵と文と書の絶妙なコラボレーションをみせてくれた。

またデザイン感覚も鋭く、カナダと道との交流展におけるポスターの意匠は、和の美を活かしたものだった。

このように島田無響は、あくなき探求心を内に秘めた方だった。ここからは少し、柴橋の見方をいれて語っておきたい。私からみて、誰でもない自分の表現を追いもとめていた芸術家だった。晩年には、病に苦しんだが、不自由な身体をのり超えて、筆に自己を託ししていた。創造力は決して衰えていなかった。

一方でユーモア精神にあふれ、冷静に物をみながら自己卑下の姿勢が強い方だった。私たちは、彼から何を学び、何を継承すべきであろうか。まず<和の美>を内に燃やす芸の心ではないか。そして常に自己を新しくつくりだしていくダイナミズムではないか。少しでもそれに近づけることができたら、と想うばかりだ。

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(文責・柴橋)

2019年10月14日 (月)

第92回「前衛音楽の仕掛け人」

2019年2月22日(金)

○講 師=沼山良明(NMA主宰コンサートオーガナイザー)

本業はヤマハ札幌店ピアノ調律師。70年代後半、ジャズ評論家・副島輝人氏との出会いなどで前衛音楽に関心を深め、1983年ドイツのメールス・ニュージャズ祭を観て、世界と日本の音楽情報のギャップに目覚めたことから、同年非営利のNMA(NOW MUSIC ARTS)を発足。国内外の先鋭的な音楽を札幌に紹介するコンサートを企画、開催し、時には道内各地にも紹介している。

これまでに180回を超えるコンサート(6回のフェスティバルを含む)を開催したほか、1995年から2000年には、即興演奏のワークショップを毎月開催。執筆・寄稿に『ジャズ批評』、『ユリイカ』誌ほか、毎日新聞北海道版『ハルニレ』(1997-2001)、北海道新聞夕刊コラム『されど音楽』(2015)など。コミュニティFMさっぽろ村ラジオで音楽番組を担当(2003-2006)。2012年より、ACF札幌芸術文化・フォーラムにて「ACFアートサロン」担当。2
013年、サッポロ・アートラボ主催「第2回北の聲アート賞特別賞」受賞。

 

第92回「前衛音楽の仕掛け人」

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第92回レクチャーを音楽マネジメント沼山良明にお願いした。沼山は、2013年度に「北の聲アート特別賞:日建社賞」を受賞している

タイトルは、「新しい音楽って?」だった。とても刺激的なレクチャーだった。かなり前から沼山の仕事については知っていたはずだったが、新しく分かったこともある。

彼は由仁町で生まれ、学びは岩見沢の農業高校で行った。その岩見沢の地でよく通ったのがジャズ・喫茶「志乃」だった。

音楽は好きだったが、ある時調律師をめざすことを決意した。本州で資格習得を目指した。無事資格を得て、それを生業にした。

ただそこで得たお金を、音楽プロジュースにつぎ込んだ。転機になったのが、ジャズ評論家副島輝人との出会いだった。それが縁で、前衛的な音楽に関心を抱いた。1983年には、ドイツのメールスジャズ祭を見聞し、先端の音楽に打ちのめされた。

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すぐにNMAを立ち上げ、欧米のニュージャズや前衛音楽の紹介に努めた。さらにダンス、朗読、インスタレーションなど、音楽を軸にして他の表現とコラボをめざした。その数は180回を超え、招いたアーティストはのべ230組以上にのぼるという。 

2017年に開催した札幌国際芸術祭ではエ グゼクティブアドバイザーを勤め、札幌市資料館では「NMAライブ・ビデオアーカイブ」をみせてくれた。

レクチャーでは、「NMAライブ・ビデオアーカイブ」から、その招聘した音楽を時間を有効活用して紹介してくれた。そのために使用した映像は、68分をこえた。あらためて聞きながらフリー系ジャズだけでなく、ノイズ音楽がかなり含まれていると感じた。

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このノイズ音楽とは、これまでの音楽的常識からは楽器と見なされないものを楽器や音源として使用し演奏するもの。現在はノイズ系の音楽という括りがありようにポピュラー音楽とも交差している。それほどまでに現代音楽シーンは拡大し、多様化しているようだ。

それにしても、よくこんなにも先端音楽を招聘したものだと思った。いつも人が集まるわけでもないので、かなりの資金を投入したと察した。誰もしなかったこと。それをたった1人で実行してきた。この先鋭的な音楽を紹介するという堅い意志。それには、頭が下がるばかりだ。

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では沼山は、何を目指しているのか。沼山には、この札幌をドイツのメールスにしたいという熱情があるようにみえたのだが……。


 人一倍今日の音楽状況への強い想いがあるようだ。既成のもの、すでに定番となっているもの。その古いゾーンからのがれて、いま一番先端で奮闘している音楽家に連帯すること。そのためにはまずその音を聞かねばならない。

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そしてその音を多くの他者に広めていかねばならない。そんな使命にもえているようだ。全て手弁当で押し広めている。このひたむきな無償の行為に、大きな拍手を送りたい。そして彼の仕事を引き継ぐ方がでてくることを強く期待したい。(文責・柴橋)

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